百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え最終回は、キャリア全体を通じて見えてきた風景です。40年に渡る技術者人生を振り返ると、期待と失望、挑戦と達成感の繰り返しであり、キャリアを重ねた結果としてより高い目標が見えてくるように思います。

キャリアから見えるもの

ここまで私は、自分の技術者キャリアについて書き綴ってきた。そのキャリアを振り返ると、私自身が多くの失敗によってどん底の状態に落ち込み、それから這い上がる努力を行い、ようやく安全圏に入ったと思った瞬間にまた谷底に落ち込み、あがいてきた姿が見えてくる。 そして、這い上がりのプロセスにおいて、 数多くの挑戦を行ってきたことがわかる。そんな挑戦に私を駆り立てたものは何だったのだろうか。

心の奥底にあるもの

「君の成績だと、将来とても国立大学には入れない。」私が中学2年生だったとき、進路指導の際に学級担任から出た言葉だった。一瞬それに反発を覚えたものの、きっぱりとしたその口調は、私には動かしがたいものに受け取れた。当時の私の成績は、学年で中の上ぐらいで、あまりよいとは言えなかった。学級担任の言葉は、それらのデータに基づいていたのだ。その後、高校入試に向けて勉強したが、 目指した公立高校は不合格となり、高専に行くことを決めた。このとき、私の心の中に「自分はやはり大学にいけない」とはっきり刻み込まれることになった。身近に大学を目指す先輩がいて刺激を受けたことは間違いない。しかし、それはあくまできっかけにすぎず、本当のドライビングフォースではなかった。当時はわからなかったが、中学校の学級担任の言葉への反発がその根底にあったようだ。「先生が言ったことは本当だったのか」という思いがあり、それが時を経るとともに、心の中でどんどんと膨れ上がっていたのだ。おそらく、自分の進む方向について、他人に断定的に方向づけされたことへの嫌悪感であったのかも知れない。

当時の私の成績からすれば、担任の判断は妥当であった。だが、中学生の私には、 学級担任の言葉は、評価をする人としてある程度支配力があり、それから開放されるのに、その後相当な努力と時間を要したことは事実である。学級担任の一言が、こんなにも私に影響力を与え続けたとは驚きであった。

私を突き動かしたもの

エンジニアリング会社に勤めてから、論文ドクターの取得に挑戦したことも、もとをたどれば師弟関係にゆきつく。大学院時代に、指導教官からあまりよい評価を受けられず、研究者として今後キャリアを積んでいくことに自信を失ってしまった。当初は、博士課程に進み高専の教官になることを目指していたが、それも断念してしまった。

指導教官から受けた指摘は、私の心に傷として深く残り、なかなか癒えることはなかった。そして会社に就職して研究者として自信がつき始めたころにやっと、「本当に研究者として劣っているのか。」という疑問が沸き起ってきた。それが論文ドクター取得へ私を突き動かしたのだ。大学院生であった私は、中学時代と異なり自分の個性を確立しつつあったのに、自分で思っている以上に指導教官の影響を強く受けていたのだ。おそらく、工学系の大学院では、師弟関係が徒弟関係に近く、指導教官の学生に対する影響力が特に強かったためであろう。

それでは、エンジニアリンング会社からD化学に籍を移し、知的財産の専門家を目指したときは、どうだったのだろうか。そこには、上司部下の関係が大きく影響していた。「君のような常識のない人間は当社の幹部として取り立てるわけにはいかない」というある上司の言葉がきっかけとなっていたと思う。

もともとは、私がその上司をドクターの公聴会に呼ばなかったが原因だった。そのため、そのまま在籍しても会社における技術者としての私の評価は上がらず、活躍の場が見つかるとも思えなかったことが、会社を移った動機であった。そして、D化学では単に技術者として業務を行うだけでは、活躍できる見通しが立たなかったので、リスクは承知の上で、経験のない知的財産の専門家を目指したのである。

以上のことから、師弟関係や上司部下の関係の中で、自分への評価が行われる場合、その評価に対して自分で納得できないときに「本当にそうなのか」という疑問が沸き起こってきたことがわかる。また、それがドライビングフォースとなって、新たな挑戦を行ってきたことも浮き彫りとなってきた。しかも、いずれも長い期間を経てようやく目的が達成されるような、大きな挑戦でもあった。

もう一つの要因

しかし、私を挑戦に駆り立てたものは、本当にそれだけだったのだろうか。ふと、日本原子力研究所に派遣されたときのことを思い出した。原研に出発する間際に、社長から「君には、研究所に行って隔膜の技術者として修業を積んできてもらいたい。」と声をかけてもらった。
実はこのテーマは、会社の存続をかけたプロセス開発に関係するものであった。しかも別の候補者が決まっていたにもかかわらず、入社して間もない私にその任を託されたこともあり、「自分は期待されている」という想いで心が満たされた。そして、その期待に応えるために、新規な隔膜の合成研究に専念した。新人である私が、派遣先で孤独な研究生活に耐えられたのも、自分への“特別な期待”を感じていたからだ。

そう言えば、もう一つ同じような経験がある。D化学に移ってからしばらくたったころ、ある上司から「突然ですが、訴訟対応のために米国にいってもらえないでしょうか。」と言われた。その当時、D化学は米国の会社から特許権侵害で訴えを起こされており、その対応が急務となっていた。D化学にとって初めての米国での訴訟対応であり、誰を訴訟担当として米国に派遣するかが会社にとって重要な課題となっていた。その上司は、私が知的財産に関心をもっていたこと思い出し、一研究員の私にそれを託したのであった。

訴訟対応には高度な専門知識と経験が要求されるので、研究員をいきなり訴訟担当に任命することはあり得ず、そのような決定をすること自体リスクがあった。それを承知の上で私を訴訟担当としたのは、将来のD化学にとって必要な人材となってほしいという“特別な期待”があったからだろう。私も未知の仕事で不安感に襲われたが、約3年間にわたり特許駐在員としてワシントンで業務を全うできたのも、そんな期待に応えたいという想いがあったからだ。

このように、私を挑戦に駆り立てたもう一つの要因は、「特別な期待に応えたい」というものであった。「それは本当か」に根ざす挑戦が、期待されていない状況での這い上がりであったこととは対象的である。這い上がりでは、いったん落ち込んだ状態から、リベンジするという重苦しい印象があるが、「特別な期待に応える」に根ざす挑戦では、今の状態からさらに高みに登るという晴れやかな印象がある。このして見ると、今まで私が行った挑戦の奥には、「特別な期待に応える」という陽の部分と、「それは本当か」という陰の部分の二面性が潜んでいて、それぞれの役割を演じていたことがわかる。

納得のいくキャリアとは

「自分がなにをやりたいのか」という問いを自らに発しながら、悩みつつ歩みを続けているうちに、ふと振り返るとわだちのように刻み込まれたもの、それが「キャリア」であった。そして、そのわだちには、今まで自分が行った数多くの挑戦の結果も刻み込まれていた。だが、それは決して成功例だけではなかった。たとえば、高専時代に描いた「高専の教官になる」という挑戦は実現せずに途中で挫折している。ドクターを取ったあとも現役の技術者として能力に陰りを感じ、知的財産の専門家となるべく方針の転換を行っている。現役の技術者として生き延びるという観点からすれば、やはり挫折している。

しかし、それらの失敗例を含め今まで私が行った挑戦は、自身のキャリアに彩りを添えている。もし、それらの挑戦がなければ私のキャリアは味気ないものだったに違いない。そういう意味で、これまでのキャリアに対して悔いはないし、これからも挑戦を続けて豊かなものにしたいと思っている。
本連載を通して、私が行った種々の挑戦を言わば「実験レポート」のように記述し、自分にとって心の痛みとなる部分もあえて紹介した。そうしないと「実験レポート」としての価値が失われると考えたからだ。この「実験レポート」が、これから技術者としてキャリアを形成される方々にとって役立つことを願って筆を置きたい。

技術者人生は縦走登山のようなもの

出典:「現代化学」(東京化学同人)2006年12号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り