百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第4回は、企業への就職と日本原子力研究所への派遣です。

就職前に感じた不安

「会社では、私はどのように振舞えば良いのだろうか。」これが、私が会社に入る前に感じた不安であった。それは、今まで馴染んだ教育の場である学校を離れて、社会で経済活動を行う会社という場に、初めて身を移すことへの不安でもあった。しかし、入社後の研修会を受け、実際の職場での仕事が始まると、新しい知識や技術を覚えるのに忙しくなり、当初感じた不安は徐々に心の中から忘れ去られていった。だが、この記憶が再び呼び起こされることになった。

訪れたチャンス

会社に就職して数ヶ月経ったところで、担当部長から別室に来るように指示があった。新入社員が部長に呼ばれることはめったにないので、何事かと不安に思いつつも部屋をノックした。「君には、9月から日本原子力研究所の高崎研究所に行ってもらうことになった。当社は新しいプロセスに使用する隔膜の開発に着手するが、当社にはそのノウハウがないので、原研の協力を得て進めることになった。入社早々だが、外来研究員として原研で研究してほしい。」と部長から穏やかな口調で説明があった。さらに、「すでに別の人が派遣されることに決まっていたが、入社後の行動からみて君が適任と判断した。」とコメントがあった。それに対してとっさに「喜んで行かせていただきます。」と返事をして部屋を出た。

生まれて初めて転勤の辞令を受けた驚きもあり、説明の最後の部分まで充分に考えが及ばなかったが、実はそこに重要な意味が隠されていた。つまり、部長は入社後の私を原研に派遣する候補としてすでに評価を行っていたのである。社内研修を終えて数ヶ月しかたっていない新入社員に対して、このような評価が始まっているとは夢にも思わなかった。しかし、なぜ私が選ばれたのだろうか。

私が入社する前は、Nさんが派遣候補として決まっていた。Nさんは、大学院の修士課程を修了し、私より1年前に入社していた。専攻も私と同じで、外来研究員として充分やっていく能力があった。さらに、会社に勤めて1年経つので、新入社員の私よりも、会社の業務内容について理解していた。一方、私は前回述べたように在籍した大学院で、指導教官から研究者としての評価を得られず、博士課程への進学を断念したという経緯もあり、技術者として自信を失っていた時期であった。通常ならば、Nさんが原研に派遣されるのが順当であろう。

派遣されてしばらくたったときに、研究会議で部長と合う機会があり、私を選んだ理由を聞くことができたが、「派遣した人間を通して会社が評価されることになるので、会社の代表として相応しい人を選んだ。」とのことであった。入社後、私は大学院時代の専門にこだわることなく、とにかく与えられたテーマに対してどのように展開するか前向きに考える姿勢を取り続けた。その姿勢が、会社に評価されたのであろうか。いずれにせよ、私にとって這い上がりのきっかけをつかむことができたのは幸いであった。

原研に派遣される直前に社長に挨拶にいったが、そのとき社長から「当社はエンジニアリング会社であるけれども、新しいプロセスを開発するためには、プロセスの中心的な役割を演じる隔膜についても自社で製造できるようにしたい。君も研究所に行って隔膜の技術者として修業を積んできてもらいたい。」という言葉をかけてもらった。社長自ら私に期待をかけてくれたことは、その後、隔膜の技術者としてキャリアを築く上で大きな精神的な支えとなった。

派遣生活の始まり

9月から、原研の高崎研究所での研究生活が始まった。初めて見る研究所は、森の中に切り拓かれた敷地に研究棟が点在し、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。野球場やテニスコートなどもあり、恵まれた研究環境であった。このような研究所で修業をつめる機会が得られたことに、喜びを隠せなかった。

その日、これから所属する研究室へ行き、職員への挨拶を行って、今後行う研究テーマについての簡単な説明を受けた。私の研究は、放射線を使って新しい隔膜の合成であったが、外来研究員という立場で派遣されたので、研究を進める際には、職員に相談はするが基本的には自分自身で研究計画を立て、実験を行い成果を出さねばならない。このように外来研究員は、原研では独立した研究者として扱われる。原研に来てから早々に、会社の代表として研究を進めることの責任の重さを実感することになった。

また、会社にいたときと大きく異なる点は、月に一度帰社し報告を行う以外は原研で研究を行うため、会社組織としての束縛が非常に弱くなったことだ。一方、原研では、原研の職員ではないということで、原研の組織からは外れた存在であった。いわば、外来研究員という立場は、自分の所属する会社から離れ、原研でも組織外にあるという、いずれの組織の影響も受けにくい状態に置かれていた。このとき自らを“遊牧民”だと感じるようになった。

遊牧民であることの意味

遊牧民族であるトルコ人の諺に「故郷とは、生まれた所ではなく満足したところ」というのがある。農耕民族である日本人が一所懸命に自分の農地を守るのとは対比的であるが、原研に派遣されている私には、このような遊牧民族の生き方に共感を覚え始めていた。また「強いものが遊牧し、弱いものが耕す」という諺が示すように、実力主義をとらないと生きていけない遊牧民族から学ぶべきことが多くあると直感した。それは、遊牧民は組織の束縛からは自由であることの代償として、自分が生きていく糧を失った場合には、のたれ死にする危険性をも背負っているからである。

私自身にとって、このような遊牧民の状態に置かれたことが、自分のものの考え方の幅を広げる上で重要であった。もしNさんが原研に派遣され、私が会社で研究を続けていたとすれば、研究成果を出すために没頭し、大学院時代に芽生えつつあった個性について顧みる機会がなくなり、自分を組織に順応させ、いわゆる会社人間となっていたかもしれない。そして、数年経つと自分の会社を「うちの会社」と言うようになり、会社という組織の中に自分自身を埋没させていたであろう。逆に遊牧民の状態に置かれたことで、通常は会社人間なっていく時期に、 組織の束縛から解き放たれ、自分の個性に磨きをかけることができた。このように所属する組織と一歩離れて自分を見つめる目を育てることは、その組織において自分が置かれている位置を認識できるとともに、その組織以外のものの考え方に触れる機会が増えるので、自分自身のキャリアを考える上では非常によかった。

たとえば、今回の原研の派遣の目的は、あるプロセスに使う隔膜の開発を行うことであったが、原研において最先端の隔膜の合成手法について学ぶことができたし、研究所にいる種々の職員の研究手法を参考にして、自分の研究テーマを行う上で最も適した方法を編み出すこともできた。さらに、派遣元の会社の技術と原研の技術をいかに融合させられるかについて仲介役を行うことができた。このような経験を通して、隔膜の技術者としてキャリアを積むと同時に、開発者としての幅を広げることができたと思う。

ふれ合う個性

実は私に刺激を与えてくれたのは原研の職員だけではなかった。私のほかに約10名の外来研究員が他社から原研に派遣されており、外来研究員同士の交流も活発に行われていた。おそらく、原研の中で同じ遊牧民という立場であったので、互いに親近感を持ったのであろう。数か月に一度、夜に集まり、近況や仕事に関する話しをするだけであったが、すぐに打ち解け、会社人間としではなく個人として触れ合うことができた。

その“遊牧民”の中で特に親しかったのがFさんだった。私よりも歳が一つ上で年齢が近く、原研の独身寮に一緒に住んでいたことや、開発室の所属も同じであったことから、自然と接する時間が多くなった。そして、研究のことはもちろん、技術者としての生き方についてや、結婚などの私生活についても語り合える間柄となった。Fさんがもし同じ会社の人間であったら、社内の昇進や評価に関して利害が絡み、自分をさらけ出すことにリスクが伴うので、そこまで親しくなることはなかったと思う。 やはり、そのような利害が絡まない“遊牧民”であったことが、親交を深めたのだろう。

Fさんとは、それぞれの会社に戻ったあとも交流を続け、刺激を与えあった。 その中で一番大きかったのは、原研時代の研究成果をベースとして、互いにドクターの取得を目指したことだ。そして、互い無事目標を達成することになる。おそらく、原研で遊牧民としての機会が与えられなかったら、Fさんとの出会いもなく、人生の豊かさも今程は感じられなかったであろう。

原研に派遣されてから3年後、私は遊牧民としての生活を終え、束縛多き会社に復帰した。だが、原研時代に築きあげた遊牧民としてのメンタリティーは心の中に刻み込まれていた。その後も会社という組織から一歩離れた位置から自分を見つめる目を持ち続け、自分の個性を見失うことなく、組織と折り合いをつけながらキャリア形成を行う道を歩むことになった。

遊牧民としての技術者生活