百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第5回は、米国経営大学院への留学前半です。

未知の経験への不安

「日本の社会を離れ、米国で一人でうまくやっていけるだろうか?」出発の日が近づくにつれて、このような不安が心の中に芽生え、そして膨らんできた。文化が異なる外国で暮らすことは私にとって未知の経験である。それゆえに、今までの自分が経験し学んだことが通用しないことに遭遇するであろう。そのようなとき、どう対処すればよいのであろうか。

新たなチャンス

日本原子力研究所での外来研究員としての役割を終え、会社に復帰してから1年が過ぎたころ、突然担当部長から、「今度君には米国の大学で経営に関する勉強をしてもらうことになったので、現在の業務を引き継げるようにして欲しい。」と告げられた。派遣先から戻り、仕事は順調に進んでいた。これから私を中心に、隔膜の開発を本格的に進めようという矢先であっただけに、この部長の言葉は意外であった。部長としても、開発が順調に進み出した時期でもあり、私を海外に出すことに反対のようだった。しかし、社長の「留学というのは、行ける時に行かないと機会を失する。」という方針に従い、私の米国留学が決定された。

この留学は、会社から毎年社員を1名米国に派遣し、語学研修を受けたのちに米国の大学院に1年間在籍させ、経営学の単位を取得させるものであった。私の場合、もしこの時に開発を優先し、留学の時期を遅らせる決定がなされたならば、二度と米国留学は実現しなかったであろう。 なぜなら、私の派遣を最後に、この留学制度は見直されることになったからだ。最後の留学生として、かろうじてチャンスが巡ってきたのである。

サバイバルゲームの始まり

29歳の3月に、私は成田空港から米国に向かって出発した。まず、ホノルルで入国審査を済ませ、 サンフランシスコ経由でニューヨークへ行き、最終目的地であるボストンへと向かった。乗り継いた関係もあり、ボストンの空港に着いたときには、 成田を出発してからまるまる1日がたっていた。充分な睡眠がとれなかったこともあり、体がだるく休息をとりたい気分であったが、その足でボストンの郊外にある英語学校へと向かった。

学校に到着後、クラス分けのための試験が行われた。英語の能力によって4つのクラスに分かれており、私は下から二つ目のクラスに入ることになった。試験が終わってから、ホームステイ先の案内があった。事務員から何件か候補の家が示され、この中から自分の気に入った所を決めるようにと説明があった。だが、これらのホームステイ先は学校の周辺にあるとはいえ、とても歩いて回れる距離ではなかった。私は一瞬どうしてよいかわからず、事務員の顔を見たが、その固い表情からは「自分でなんとかしなさい。」としか読み取れなかった。その日に決めないと寝る場所が確保できないので、非常にあせりを感じた。このように、米国での1日目は、まさにサバイバルゲームの始まりであった。

そのとき、たまたま事務員とのやりとりを聞いていた日本人のOさんが声をかけてくれ、車で案内してくれたので、なんとかホームステイ先を見つけることができた。Oさんは、数カ月前からこの英語学校で勉強していた人だった。もしこの人がいなかったらどうなっていたのだろうか・・

英語との格闘

この英語学校に通うことになったのは、 大学院の入学許可を得るのに必要な語学力を養うためであった。英語の能力を調べるために行われる試験(TOEFL試験)で520点以上が入学には求められていたが、私はそれをクリアーしてなかった。日本出発前に受けた結果では430点だったので、約100点上げる必要があった。そして7月末までに、クリアーできないと、大学院の入学許可がおりず、米国に来たものの、留学の目的を達することなく会社に戻ることになるので、私にとって大きなプレッシャーとなっていた。この留学には、会社からの期待とともに、家族の期待もかかっていた。もし、大学院に入学できなければ聴講生として滞在することになり、その場合には会社の規定により、家族を米国に呼ぶことができず、ずっと単身で生活しなければならなかったからだ。

このような状況で勉強していたにもかかわらず、私はなかなか英語に自信を持てなかった。それは、 高専時代あまり英語を勉強しなかったことと、普通の高校生のように大学受験というハードルがなかったため、集中的に英語を勉強する機会がなかったためである。高専では、専門分野に関する文献が読める能力があれば特に不自由することがなかった。中学校程度の文法と専門分野における語彙があれば充分で、それ以上の勉強をする必要性を感じなかった。しかし米国の大学院は、中学校程度の英語で通用するはずはなく、授業の事前準備のためのリーディングに必要な能力、講義を理解し議論する能力、ケーススタディーを報告書としてまとめる能力など、ハイレベルな英語の能力が要求される。520点というのは、それらの能力を最低限身につけているというレベルであり、実際にはそれ以上の能力がないと授業についていくことができない。

最初のころは、TOEFLの点数を100点上げることに、プレッシャーを感じていたものの、英語学校で勉強すればなんとかなるであとうと考えていた。しかし、5月に受けた試験では400点と逆に下がってしまい、このときはさすがに冷や汗の出る思いをした。残り2ヶ月間で120点以上上げなければならない状況に追い込まれたからだ。その後、英語の授業をあてにせずに、自分で勉強していこうと方針を切り替えた。まず、短期間でヒアリングの能力を向上させるのは難しいと考え、文法の勉強に力を入れるとともに、 読解ではパラグラフ・リーディングの手法を学ぶことにより、得点を上げることに努めた。この方法は、一つのパラグラフには一つの主題があり、それが最初の文章で表現されているので、各パラグラフの最初の文章を読んでいけば、どのような長文でも短時間に内容を把握できるという手法である。このような方法を取ることにより、7月には530点を取ることができ、何とか大学院への入学ができる状態にもって行くことができた。

異なる文化の狭間で

このように留学当初は、英語力を身につけることが最も重要な課題となっていが、それだけではなかった。米国で生活するためには、精神的な安定を確保することも大切であった。
私のホームステイ先は、外科医の家で2階建ての立派な家であったが、私にあてがわれたのはガレージの上にある6畳程度の薄暗い部屋で、天上が屋根の傾斜に伴って斜になっていた。食事はついていなかったので、学校の食堂で食べ、勉強は学校の図書館で行い、この部屋ではただ寝るだけであった。ホームステイといっても、よく広告にあるような、米国の家族と留学生がリビングルームで楽しげに交流するようなものでなく、家主が家賃収入を得るために、部屋を開放しているにすぎなかった。家族から離れ、単身で米国に来た私にとっては、ホームステイでの生活は返って孤独感を深める結果となった。

この家に住み始めたころは、ここの家族と話す機会がなく、なぜ誰も私に話しかけてくれないか不思議に思っていた。しかし、今から考えれば、ホストの家族にとって、私は日本から来た語学留学生である。まだ正規の大学院生ではなく、しかも会話も充分にできる状態ではなかったので、私に興味すら持たなかったことは理解できることである。むしろ、30歳に近い男性が単身で米国に来ていること自体に気味の悪さを感じたのではないだろうか。

それは、英語学校でも同様であった。もともと大学入学の準備のために英語教育を行う学校なので、学生の大半は高校を卒業したばかりの若者であった。クラスでは私が最年長であり、ひとまわりも歳が違う学生の間では、興味や関心が異なり、共通の話題を見つけるのが難しかった。さらに、南米から来た学生が多かったので文化的な違いがあり、馴染むことができず、クラスの中でも孤独を感じた。

授業においても、教師は、私にほかの学生と同様の質問や注意を与えたので、米国では一介の語学留学生でしかないことを改めて自覚させられた。日本であれば、大学院を修了し、その後数年間、研究所で修業した技術者であれば、研究者として自信をもって仕事を行える時期である。まさかこの歳になって大学入学前の学生のように扱われるとは予想もしていなかった。この時期は家族から離れた孤独感も大きかったが、ホームステイ先でも英語学校でもただの語学留学生としての扱いしか受けず、自分でその状態をすぐに受け入れることができなかったので、精神的にはかなりハードであった。
週末に町に出て美術館などを見学して気を紛らわそうと努力したが、精神的な安定を得るためにはこれといった手段はなかった。結局、米国においては自分の存在をまわりに認めてもらう以外に方法がないのではないかと思い至った。そのためには、まず大学院の入学許可を得ることが重要であった。それは、語学留学生という不安定な身分ではなく、大学院生という比較的信頼される立場を獲得できるからである。その意味において、数ヶ月間英語の勉強に取組み、短期間で入学許可に必要な英語力を身につけることができたのはよかった。もし、入学許可がおりなかったら、聴講生という身分となり、みじめな生活を送っていただろう。

こうして私は米国社会に対して危うげな第一歩を踏み出すことになった。

英語力獲得は容易でなかった