百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第7回は、論文博士取得の経緯です。

新たな転機

会社に入社して7年が経ち、業務も軌道に乗ってきたころ、ふと疑問をもった。「今のままでよいのか? 何かほかにすべきことはないのか。」いままで私の心の奥底で“しこり”となっていたものが、意識の中に上ってきたようだった。いったんこの問いが心にもち上がると、その答えを得ようと物思いに耽るようになった。そして最終的には、私がいままで試みた中で、最も困難で労力を費した「ドクター取得への挑戦」へと結びついていった。

心のわだかまり

その“しこり”とはいったいど何だったのか。それは、大学院の修士時代の苦い想い出に根ざす。当時の私は、指導教官からよい評価が得らず、研究能力が劣っていることを自覚したことから、博士課程に進むことを断念した。そして、将来研究者として仕事をしていくことにすら、自信を失った。これは私にとって明らかに挫折とよべるものであり、心の奥底に刻みこまれたのだった。
しかし、そんな“しこり”が、なぜ後になって頭をもたげたのであろうか。おそらく、その当時感じた挫折感を客観的に捉えることができる時期に達していたのだろう。そして「自分の研究能力が足りないという前提自体は本当に正しかったのか。」という素朴な疑問がわいてきたのだ。それに対して「そうではなかった。」と言い切るためには、何か客観的な裏づけが必要である。そこで考えたのがドクターの取得であった。しかし、31歳の私は、仕事も忙しく、とても大学院に通う時間的な余裕はなかった。そこで、大学院に通わずにドクターを取る、“論文ドクター”に挑戦することにした。

論文ドクターへの挑戦

いまでは一般的ではないが、少し前までは、会社に勤めながら学術誌に論文を掲載し、それをもとに学位論文をまとめ、大学で審査してもらってドクターを取る方法があった。そのためには、まず自分の究成果を学術誌に論文掲載することが重要となる。大学によって異なるが、論文ドクターの場合、博士課程で求められるよりも多くの学術論文が必要とされる。これに加えて指導教官の指導を受けられないため、この方法でドクターを取ることは至難の技といえた。しかも私の場合、いままで学術雑誌に掲載された論文は一つもなく、まったく一からの出発となった。

そこで、まず日本原子力研究所に外来研究員として派遣されていた時代の研究成果を使って最初の学術論文を作成することにした。無名の研究者であった私は、そのことがハンディーとならない米国の学術雑誌に投稿することにした。 最初は、論文のまとめ方すらわからなかったので、関連する論文を集めてきて、論文の構成、データのまとめ方や考察の仕方を学び取り、試行錯誤しながら論文にまとめていった。特に相談にのってもらえる人もまわりにいなかったため、あるときは学生、あるときは先生という役割を演じながら論文を作成していった。このような形で進めたので、最初の論文の原稿を仕上げるのに8ヶ月間もかかってしまった。

だが、これですぐに論文が掲載されるわけではない。論文の内容やレベルがその雑誌に合わない場合には、編集者から「この原稿は掲載する意志がない。」との返事がある。私の初めての論文は、幸いにも受理された。ところがしばらくして、二人の論文査読者からコメントが送られてきた。その内の一人から「この研究成果は学術上あまり意味がない。」と厳しい意見をもらったときには、「この先どうなるのだろう。」と不安感を抱いたものだ。しかし、研究の意義をアピールするための論拠をそろえ、査読者に粘り強く説得を行った。そんな努力が実り、最初の学術論文はなんとか雑誌に掲載されたが、論文作成に着手してから約2年が経っていた。

最初の学術論文で自問自答をくり返したおかげで、論文の構成や表現方法をつかんだ私は、その後、 順調に学術論文の作成を進めていった。そして、論文作成に着手してから3年間で目標とした7報の学術論文を米国の学術誌に掲載することができた。もし、最初の学術論文の作成に失敗していたら、それがつまずきとなって、論文ドクターを取ることは無理だったろう。このようにドクターを取る場合、最初の学術論文をいかに仕上げるかが重要となる。

もう一つのハードル

7報の学術論文をそろえた私の前につぎのハードルが迫ってきた。公表した学術論文をまとめてドクター論文を作成し、大学で審査を受けなければならないのだ。ここで重要となることは、どこの大学にドクタ−論文の審査を依頼するかである。通常、まったくつながりのない大学と比べ出身大学のほうが有利と言える。しかし、私は出身大学に依頼することにためらいがあった。それは、大学院時代に指導教官と価値観の違いに根ざす対立があり、口論が絶えなかったからだ。しかし、前述した“しこり”を払拭するためには、この指導教官との対話を避けることはできないと考え、まず指導教官に相談することを決意した。

「これやったら何とかドクターとれるやろ。」これが最初に指導教官から出た言葉であった。修士時代には厳しい評価しか得られなかったので、今回も「これではぜんぜんあかん。」と言われるのではないかと不安に思っていたが、この一言で大いに勇気づけられた。しかも、その後の大学における論文審査を行う主査と副査を決めるなどの段取りを整えてもらい、非常に助かった。いまでも指導教官とは価値観は異なると思うが、論文ドクターの取得に関してはメンター(助言者)としてなくてはならない存在であった。もし、出身大学ではなく、ほかの大学に論文審査を依頼していたら、ドクター取得は難しかったでかもしれない。それは副査の先生の「ぎりぎりで審査にパスした。」という言葉から推察がつく。

成功に結びつけるための工夫

今から思うとよくドクターが取れたものだとつくづく思う。実は、論文をまとめる以外にもいろいろな工夫が必要だった。たとえば、ドクター論文のドラフトが完成するまで、論文ドクターの件は会社に報告せず、自称“ヤミプロジェクト”として進めた。 会社にとって前例がないことなので、いきなり「ドクターを取らせて下さい。」と言ってもなかなか理解してもらえないと思ったからだ。 結局、「そこまで準備をしているならば取ったらどうか。」ということになり、無事許可を得た。それ以外にも、働きながらドクターを取るゆえの工夫が必要であった。

私の場合、平日は会社で業務を行っているので論文を纏める時間はない。そこで、週末に自宅で論文をまとめなければならなかった。最初のころは週末になると「論文を纏めよう。」と意気込んでいたが、実際にはほとんど作業が進まなかった。そんな状態がしばらく続き、しだいに焦りを感じ始め、作業が進まない原因について考えを巡らすことになった。

そのころの仕事場は、研究室ではなく製造現場に近いところであった。一方、論文をまとめる作業では、反応機構など分子レベルの議論等を行うので、現場にいる時と違い、学術的な思考が必要となる。そのため、会社で業務を行うときと、自宅で論文を書くときの頭の使い方が異なり、その切り替えがうまくいっていないのではと思い至った。つまり平日業務を行うための思考には慣性が強く働いており、その慣性ゆえに週末に別の作業、得に思考パターンの異なることを行おうとすると、頭の切り替えがしにくく、やる気が起こらないと考えた。

そこで、平日は会社の業務に専念し、なるべく週末に会社の業務をもち込まないようにした。そして論文をまとめる作業の前には、日常業務の思考の慣性を断ち切るための工夫をすることにした。具体的には土曜日の午前中は家の周辺を散策し、業務のことを忘れる努力をした。また、午後から論文作成を始めるときには、いきなり執筆にとりかかるのではなく、先週纏まとめた部分を読み返すなどの単純作業から入り、頭が馴染んできたところで徐々に論文を書ける状態へともっていった。このように工夫しても週末に論文を書くために6時間程度を捻出できればよいほうであった。

さらに問題なのは、自宅の環境であった。そのころは、3DKのアパートに住んでいたが、結婚し子供も一人いて、自分の勉強場所をいかに確保するかが重要となった。まず、小さな机とワープロをそろえ、部屋の一角に勉強できる空間をつくり、本箱には必要な論文や図書を集め、こじんまりとした研究室を作った。そして、約3年間、週末を論文作成のために使い、家族と外出する機会も自然と少なくなった。ドクター論文作成においては、このような家族の協力を得ることも不可欠であった。

このように30代前半という、精神的にも体力的にも充実した時代に、論文ドクター取得という、キャリア形成上大きな挑戦が行えたのは幸いであった。この挑戦があと5年遅れていれば、ドクターの取得は実現しなかったであろう。そして、「研究者として劣っている。」というコンプレックスを心に抱きながら、技術者としての生活を送っていたであろう。ドクター取得を成し遂げた後、しばらくは「何もしたくない」という状態が続いたが、目標を達成したという充実感に助けられ、しばらくすると心の内面につぎへの飛躍のための夢が膨らみ始めた。

業務の合間を縫って研究論文作成に励む