百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第8回は、入社11年目に訪れた転職の経緯です。

辞意の表明

「一身上の都合により、会社をやめさせていただきます。」入社後11年が過ぎたある日、上司である研究所長に辞意を伝えた。「なぜ、会社をやめるのかね。」と、所長は苦渋に満ちた表情を浮かべながら言った。その後しばらく会話が続いたが、所長の「この件はしばらく考えさせていただく。」という言葉で締めくくられた。そのとき私は、つぎの就職先も決めており、すでに退職する意志を固めていた。

些細なきっかけ

私が会社をやめたいと思ったのは、ある些細な事件がきっかけとなっていた。私はその時35歳であったが、数ヶ月前に工学博士の学位を受けていた。約3年間独りっきりで、 週末を使って自宅で学位論文の準備を行い、ようやく獲得した論文博士であった。個人的には、学位を得たことで、技術者として大きな自信を得たし、さらに自分を成長させたいという望みも出てきた時期でもあった。
「だれのおかげでドクターを取れたと思ってるんや。」S役員から意外な言葉が発せられた。実はドクターを取る際、自分の論文を審査する先生を前にして公聴会が行われる。この公聴会に、研究を遂行する上でお世話になった方に参加してもらうことがあるが、S役員はこの公聴会に呼ばれなかった理由を問うために私を別室に呼んだのだった。

その言葉に対して、その場でごまかして返答すべきではないと思い、「確かに、ドクターを取ることを勧めていただきましたが、論文もすべて自宅で準備し、大学への審査依頼や費用の支払いも自分自身で行いました。」と応え、S役員が実際何をやってくれたのかを質問した。ほかにも対応の仕方があったかもしれないが、すでに手遅れであった。そのとき、S役員は言葉をなくし、怒りをこらえながらじっと私をにらみつけるだけだった。そして、「君のような常識のない人間は、当社の幹部として取り立てるわけにはいかない。」と私に告げたのだった。

会社をやめた本当の理由

会社をやめたいと思ったきっかけは、小さな事件であったが、今から振り返って見るともっと根深いものがあるように思える。当時の私は、研究開発の仕事が一段落つき、ちょうど仕事の節目を迎えていた。そして、研究者としてさらに仕事を続けるのか、研究マネージャーとして今後キャリアを築くのか、あるいは事業部門で活躍するのかという岐路にたっていた。

だが、エンジニアリング会社では、開発部門でも事業部門でも装置の設計が行える人が主要なポストについており、私のように素材開発を行う技術者は会社の中ではマイナーな存在であった。もちろん、私自身が設計をできるように新たな能力を身につけるという道もあったが、今まで身につけた技術を活かしたいという望みのほうが強かった。

また、自分では気がつかなかったが、私の内面にも変化が起こりつつあった。その変化は、意外なところからもたらされた。当時、私は大手のM化学と共同開発を行っていた。開発は順調に進み、目的とする装置が完成したのを記念して、M化学の技術者と懇親会が行われた。その席で、「百瀬さんは、今のままではだめですよ。他に進路を考えるべきです。」と、M化学の担当部長からそっと話しかけられたのだ。その部長は、私の能力を伸ばすには、エンジニアリング会社では限界があり、もっと別な会社で活躍の場を見つけるよう助言したかったのであろう。このような他の会社の人からの助言は、予想外に私の心を揺さぶった。それと時期を同じくして、母校の指導教官からは、「ドクターも取ったことやし、そろそろ次の場所を考えたらどうや。」という言葉をもらっていた。

こうして私自身、エンジニアリング会社では成長する場が狭くなり、新たな活躍の場を求め始めていたのだろう。今から考えると、S役員との事件は、私に会社を飛び出すきっかけを与えてくれたにすぎない。しかし、もしそうしたきっかけがなかったら、会社をやめることはなかったであろう。

退職を決心した私は次の就職先を見つけるために、人材バンクに登録をした。求職の条件を提示し、人材バンクからその条件に関心を示した会社の情報が送られてくるというシステムになっていた。そして約半年で6社の面接を受けた。最初の面接では、人事の担当が対応するのが普通であるが、D化学では人事とともに研究所長も同席しており、それだけでも意気込みが感じられた。最終的に、D化学に入社することになったが、まったく知り合いがいない会社でうまくやれるか、一抹の不安を感じた。

新たな会社での生活の始まり

翌年の4月より、現在も勤めているD化学に入社した。主任研究員として研究所の配属となり、研究テーマとしてはプラスチック関係を扱うことになった。以前の会社では、研究員は10名足らずであったが、新しく移った研究所では2百数十名の研究者がおり、大きな研究所と言える。

いよいよ新たな職場での研究生活が始まった。しかし、実際研究を始めようとすると具体的に何から手をつけてよいかわからず、途方にくれてしまった。隔膜の技術分野であれば一通りの知識を身につけているので、新しいテーマでも特に問題なく取り組めたであろう。しかし、プラスチック関係ということで、今までの知識があまり使えなかった。技術分野が少し異なるだけで、戸惑いを感じる自分に対して、驚きを感じた。

さらに、新しい会社でどのようにふるまってよいかわからず戸惑った。たとえば以前の会社ならば、技術的にわからない点は、誰に、どのように聞けばよいかすぐわかったが、それすらわからないのである。人に仕事を依頼する場合も、どのように頼んでよいかわからず、右往左往した。新入社員ならば、上司の指導を受けられるが、私自身が主任研究員として研究者を指導する立場にあるので、人に教わることに引け目を感じたのだ。
逆に考えれば、まわりにいる人たちも、私に対してどのように接したらよいかわからず、戸惑いを感じていたかもしれない。

そのときに、「会社をやめるのは簡単であるが、新しい会社に入ってからが大変」という意味がようやく理解することができた。研究テーマについては、関連する文献を読みながら比較的短期間で方向性を見い出せたが、会社の中でのふるまい方については、職場を観察しながら、少しづつ学んでいくしかなかったので、1年間ぐらい時間を要した。 日本の職場では、仕事の内容がマニュアル化されていないので、中途入社した人が不文律を学ぶ方法は、まわりを観察するという方法以外にないのだ。

会社を変わって感じたこと

会社を移って強く感じたことは、会社はそれぞれ独自の文化をもっているいうことであった。たとえば、社内の人の呼び方一つをとっても、D化学ではすべて「さん」づけで呼んでいた。単に同僚の間だけでなく、役員と従業員の間も例外ではない。以前の会社でも「さん」づけが行われていたが、それは部下が上司を呼ぶときに使われていたにすぎず、逆に上司が部下を呼ぶときには上下関係を明確にするために「君」が使われていた。新しい会社で、役員から「さん」づけで呼ばれた時には新鮮な感じを覚えた。単純なことだが、この「さん」づけには大変助けられた。もし「君」づけが行われていたなら、組織内の上下関係をすべて理解しなければならず、相当な労力をかける必要があっただろう。

もう一つ感じたことは、技術者としての能力の限界についてである。そのころ私は隔膜の技術者として、学会から特別講演を依頼される程度までになっていた。その実績からすれば、多少専門分野が異なっても研究が行えるであろうと高をくくっていた。しかし、実際異なる研究テーマに取組んでみると、それに必要な専門知識のなさを実感するとともに、これは相当力を入れなければ研究者として生き残れないのではないかと感じ始めた。

こんな想いとは裏腹に新しい知識がなかなか身につかなくなっていることも感じ始めていた。二十代後半に日本原子力研究所に派遣され、隔膜の合成技術を身につけたころは、特に意識しないでも、どんどん新しい知識が吸収できた。私も既に36歳を過ぎ、研究者にとって最も重要な資質である頭の柔軟性や創造性が徐々に衰えつつあったのだろう。

このように、D化学に移り、最初はその組織の文化に馴染むことや、新しいテーマにどう取組むか頭がいっぱいだった。しかし、多少精神的に余裕がでてきたときに「そもそも私は何のために会社を変わったのだろうか。本当に自分の成長につながるだろうか。」という疑問が湧いてきた。特に今後技術者としてどのように生きていったらよいか、その方向性を見失っていた時期だったので、しばらくは鬱屈した研究生活を送らざるを得なかった。そんな時期にある転機を迎えることになる。

転職で器を大きくする

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年11月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り