百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第9回は、技術専門職から知的財産という管理系職種への転向に関する経緯です。

転機の訪れ

「突然ですが、訴訟対応のために米国に行ってもらえないでしょうか。」ある日、研究開発担当のK役員から相談を受けた。当時の私は、エンジニアリング会社からD化学に移って約1年間半が経ち、技術者としてどのように生きるか迷っていた時期であった。K役員の言葉は柔らかであったが、私の心に訴えるものがあり、その場で思わず「わかりました。行かせていただきます。」と返答した。これが私にとって技術者としてのキャリアに節目をつけ、知的財産分野に移るきっかけとなった。

米国で吹き荒れる訴訟のあらし

D化学が米国で訴訟に巻き込まれたことには背景がある。1980年代半ば、米国は財政赤字と貿易赤字を抱えており、その原因の一つは、日本を含む外国企業が米国の特許を無視して安い製品を輸出していることにあるとされていた。そこで、米国は国策として、特許を含む知的財産権の強化・拡大を計った。その結果、特許を持つ人の権利が強くなり、莫大な損害賠償金を獲得することが可能となったのだ。そんな状況の中で、特許を使って他社を訴えて金を儲けるパテント・マフィアとよばれる人々が現れた。

D化学は、そんなパテント・マフィアの一つに狙われたのであった。そのパテント・マフィアは、他社が発明した特許を購入し、その特許で米国の裁判所に訴えを起こし、法外な損害賠償金を請求してきた。いったん、訴訟が始まれば、原告と被告の間で裁判に使われる証拠の開示が行われ、莫大な量の文書がやりとりされる。D化学としてもその対応のために、米国の法律事務所に社員を派遣する必要が生じた。そこで、その候補として私が選ばれたのだった。
選ばれるにも理由がある

はじめは、「とにかく挑戦してみたい」という気持ちにかられた。しかし、あとで冷静になって考えると「本当に訴訟対応ができるのだろうか」という不安感に襲われた。それは、米国で特許侵害訴訟を扱うには、少なくとも米国特許や裁判の知識が必要となることはいうまでもないが、それ以外に訴訟の対象となっている部品の技術についての理解が必要となる。さらに、米国弁護士とのコミュニケーションが重要となるからだ。

しかし、一技術者にすぎない私は、そのような能力や知識をとても身につけているとはいえなかった。特許については、自分の発明を特許出願するために必要な知識しかなく、訴訟に関しては全く経験がなかった。訴訟の対象となっている部品の技術知識についても、専門分野が異なるのでまったくわからなかった。そして米国留学の経験があるとはいえ、法律分野の米国弁護士と話しが通じるか不安があった。

そんな状況であるから、「私にはとてもできません。」と断りを入れるのがふつうだろう。ましてや訴訟対応は、会社の損失をいかに減らすかということがポイントとなる。そのようなクレーム処理を引き受けること自体がリスキーであり、なるべくなら避けるのが賢明であった。では、なぜ引き受けたのか?

今から考えると二つの理由があった。一つは、当時新聞記事を賑わしていた米国での特許訴訟に関心を持っていたことだ。ちょうどそのころ母校である高専から「私の理想とする技術者像」という演題で特別講演を頼まれ、「日米間の特許訴訟を扱える人材が求められております。こういった特殊な人材に希少価値がでてくるでしょう。」と講演を締めくくっていた。このときは、まさか自分がその道を歩むとは予想だにしなかったが、技術と法律がわかり、交渉ができる英語を身につけている人材の重要性については理解をしていた。

もう一つの理由は、38歳となっていた私は、技術者の資質として重要となる頭の柔軟性や創造性に衰えを感じ始め、今後技術者としてどのように生きていくか、その方向性を見失なっていた。現役の技術者を引退し、今までの技術者として身につけた能力を活かしつつ、技術以外の分野で新たな能力を築く必要性を感じ始めていた。訴訟対応の申し出は、そんな状況にあった私には非常に魅力的な提案となったのである。

ところで、K役員がなぜ私を訴訟担当の候補としたのか不思議であった。会社には知財部門があり、ほかに候補がいくらでもいたからだ。さらに、私が訴訟担当に向いているという判断をするには、D化学における私の実績は少なすぎた。しばらくたってからK役員にその理由を聞く機会があった。K役員は、私がD化学に中途入社する際に、役員面接に立会ったことから私の事を覚えていて、社内の会議で私が米国特許訴訟に関心をもっていることを話したことも覚えていたのだ。このことを通して、実現したいことは心に思っているだけでなく、そのことを言葉や行動で表すことにより、本当に実現化することを実体験できた。

法律事務所での生活の始まり

K役員から打診を受けてから約1ヶ月後、私はワシントンD.C.の近郊にある特許法律事務所の門の前にいた。そして不安感を胸に抱きながら、おもむろにノックした。これから3年間駐在することになる法律事務所との最初の出会いであった。この法律事務所には、弁護士と特許の申請を行う弁理士が約50名おり、そのほかの職員をいれて約120名の人がいた。私は、そんな法律事務所の一室を借りて、訴訟対応を行うことになった。つい1ヶ月前までは、実験器具に囲まれた実験室が仕事場であったのが、今度は弁護士に囲まれ、書類を扱うのが仕事となった。劇的な環境の変化といえる。当面の仕事は、東京本社から送られてくる証拠書類を分類し、原告側に送るための準備作業を行うことであった。そのために、朝一番に東京本社から送られてくる書類を読み、弁護士と打ち合わせを行い、必要な事項を確認したあと、夜にその結果を東京本社に報告することが日課となった。最初のころは弁護士との打ち合わせが苦痛であった。留学経験があったので、通常の日常会話ならばそんなに緊張することもなかったが、打ち合わせでは特許や訴訟に関する専門語が多く出てくるので、言われたことが理解できずに立ち往生することが多かったからだ。

弁護士からすれば基本的なことを何も知らない東洋からの来訪者に、いささか手を焼いているようであった。質問すると、「なぜそんな質問をするのかわからない」という表情をになったり、さらに細かく聞くと怒り出すこともあった。しかし、私としては、走りながら必要なことを学ぶ以外に手段はなかったのだ。 新しい分野を学ぶ方法としては、知ったかぶりせず、わからない点を聞いていく方法は決して間違いではなかったと思う。

米国弁理士試験への挑戦

弁護士の言ったことが理解できないときに、とりあえずは質問することでその場はしのげるが、それは根本的な解決策とはならない。やはり私自身が、米国特許法と裁判に関する知識を体系的に身につけないかぎり、弁護士とのコミュニケーションが計れないと思い始めた。そこで、まずは米国特許法を学ぶために、弁理士試験に挑戦することにした。

弁理士試験は年2回行われ、午前と午後それぞれ3時間づつ行われる。午前の部では米国特許法に関する多岐選択問題が出され、午後の部では発明に関する説明文を読み、それをベースとして特許の請求の範囲を実際に書くという試験が行われる。合格ラインは午前と午後の試験でそれぞれ70点以上とれば合格となる。このようにある基準を満たせば、誰にでも資格が与えられる。 最初は、試しに受けてみるという軽い気持ちで臨んだが、とても合格レベルには到達せず、やはり本腰を入れて勉強しないと受からないと感じ始めた。

そこで、試験の半年前から週末を利用して試験勉強を始めた。発明が生まれてから特許が登録になるまでのプロセスをまとめ、それに特許法の条文を関係づけ、特許法の全体像を理解するように努めた。また、発明を特許の請求の範囲として表すために、実際にそれを作り、弁護士に添削してもらう形で技術を修得していった。そんな努力が実りようやく3回目の挑戦で試験にパスすることができた。この試験勉強を通して、米国特許法を体系的に把握することができ、弁護士と議論しても気後れすることがなくなったのは大きな成果であった。

法律事務所に着任してから3年後、無事任務を終え日本に帰国することになった。その間、担当した訴訟は判決が出る前に和解し、問題を解決することができたが、新たな特許訴訟も起こり、その対応も行った。やはり、原告はパテント・マフィアであった。さらに、訴訟には至らなかったが、米国企業とある技術を巡ってどちらが先に発明したか議論となり、最終的には互いの特許を実施できるような契約を締結し、問題を解決することもできた。 このように、着任した当時は技術者としての技量しかなかったが、その後、特許法と裁判の知識を身につけ、訴訟担当としての経験を積むことができた。法律という私にとって馴染みのない分野を学ぶにあたって、弁護士と同じ釜の飯を食べながら、実際の事件を扱い、新たなキャリアを積むことができたのは幸いであった。

今後は、知的財産を扱う専門家として技術と法律の交差する領域で活動することになる。そして、現役の技術者として研究業務を行うことはもうないであろう。そう言う意味で、米国駐在は私のキャリアにとって大きな節目となった。

知財専門家に転向