技術者キャリアの中には暇な時もある

2020年7月25日エンジニアのキャリアデザイン

技術者は近年人材不足で四六時中忙しいはずですが、そうはいってもポッと暇になることがあります。私も30年の企業勤務時代に、何度かそんなことがありました。

一度目は、所属していたグループ会社の業績が思わしくなく、数名が本社の所属に切り替えられた時です。事業部門は付加価値を高めない頭数が増えると一時的に事業利益が下がるため、これを歓迎しません。そこで全社のコストセンターである総合研究所に籍を移し、研究所内の成果を事業化する任務が課せられました。事業化が実現すれば嬉しいが、実現しなくても大きな問題はないという雰囲気で、しかも本社の屋台骨を背負う事業というよりは、我々数名が食っていける規模で良いという説明でしたから、気が楽とも言えますが人によってはあまりやる気が出ないかもしれません。

しかしこの時の私は、折角の機会ですから研究所内をくまなくヒアリングし、事業化つまり売り物になるネタを探し回りました。本来企業内研究所の所員は将来的な製品化を念頭に自分の研究テーマを進めていくはずですが、販売の現場から離れていることでその意識が希薄になっていました。私は調べた中で最も有望と思われるテーマを中心に報告書を作成しました。

結果的に有望とされたテーマの担当責任者は、迷惑そうにその提案を拒絶しました。事業化に近づくことで自分のやりたい研究ができなくなるのが嫌だったようです。この研究者とはその後も何度か意見の対立がありました。

結局私は数名のメンバーと共に別テーマで大学との共同研究に移りましたが、どうも研究所の雰囲気に馴染めず、事業部の幹部から引っ張ってもらってとある製品の試作部門に移動し、部門の管理と並行して試作実験に品質工学を適用することになっていきます。

ここで超絶忙しいわけではなかったことで、毎日仕事が終わってから技術士の受験勉強をすることとなり、現在の技術士、MOT、博士の三冠につながっていきます。

あまり忙しくない業務についたことで自分の能力に自信を失う人もいるようですが、ネガティブに考えず、その時間を積極的に利用するくらいの気持ちを持ったほうが良い結果を得られるでしょう。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00136/00055/?P=1

 

出川通著「75歳まで働き愉しむ方法」を読んで

2020年6月24日エンジニアのキャリアデザイン

技術経営のエキスパートで著書も多い出川通氏が、初めて技術者のキャリアプランについて著した「75歳まで働き愉しむ方法」を紹介します。

近年の高齢者の元気さには驚くべきものがあり、私があらためて言うまでもなく、このパワーを活かさずして日本社会の発展(維持?)はありえません。本書は、人生百年時代の技術者に贈るライフプランの提案書です。

出川氏は、あるきっかけから51歳で大手メーカーを退職し、以来多くの大学で教壇に立つ一方、企業へのコンサルティングや自らベンチャーの役員として経営に参画してきました。

本書では自らの経験を踏まえて、100年の人生を25年毎に4つのステージに分割し、各局面に合わせて活動することを勧めます。
(1)0~25歳 学習期:活動期に備えて、基本的な知識と考え方を学ぶ期間
(2)25~50歳 組織内充実期:(1)で獲得した知識、考え方を元に、組織内で業務を遂行することにより、家計を支えると共に、自分の専門分野に関する経験を積み、専門性を深める
(3)50~75歳 自立充実期:(2)で確立した専門性を活かして組織から離れ、組織ではなく自分の能力で世界を拓き、自己目標を実現する
(4)75歳~ 悠遊記:(3)までに獲得した立場と財産で、余裕を持って趣味や社会貢献活動をする

本書の提案内容が一般的な技術者人生と異なるのは、100年の折り返し地点である50歳で組織を離れようとする点です。
ほとんどの技術者は60歳の定年まで、あるいはさらに雇用延長制度を最大限使って65歳まで企業に留まることが多いものです。

この選択のメリットは、慣れた環境で65歳まで、収入は下がるもののそれなりにやりがいのある仕事を続けられることですが、問題は退職時に100年人生がまだ35年も残ることです。この期間、特に75歳までの比較的元気な10年間をどう過ごすかが課題です。そして世に言う3000万円問題、すなわち100歳までの生活費は十分でしょうか?

またすべての技術者が50歳から65歳にかけて充実した人生を送るとも思えません。事業部長、取締役クラスになれば別ですが、ほとんどの場合どこかで役職を解かれ、報酬が下がります。不本意な業務につくこともあるでしょう。

私はたまたま本書で勧めるタイミングに近い53歳で企業を離れました。若干体力が落ちたとは言え、その時点でまだ新しいことを始めるパワーが残っていたため、会社を設立し、6年掛けて修士、博士の大学院も修了しました。一説によると起業の成功確率が最も高いのは、50代だそうです。

一方60歳はまだしも65歳になると、現状を維持する気力、体力はあるものの、新しいことを始めるにはちょっと心もとない気がします。私の経験では、周到に準備したとしても新しい事業を立ち上げるには3年から5年かかります。65歳で始めると、体力的に立ち上げに時間がかかり、立ち上がった頃には急いで後継者を探す時期になってしまいます。

となると、真面目に事業を開始してある規模になるまで面倒をみるつもりであれば、やはり50代前半にスタートする必要があります。私は53歳で企業から離れたものの、新事業で会社を設立した時は55歳でした。もし数年早く起業していれば、もう少し大きく育てて、楽しめたように思いますが、過ぎてしまったことは仕方がありません。その時々で良かれと思った選択の結果が現在です。

また仮に当人が35年間社会的生産活動をしないで充実した人生を送れたとしても、その人の能力を無為に放置することは社会にとって大きな損失です。経済的に自活できるなら不本意な仕事をする必要はありませんが、生産年齢人口が毎年数十万人規模で減少していく今日、体力、気力が続く限り(例えば75歳まで)は、楽しみながら付加価値を生み出す活動をしないことには、国力の維持、向上は望めないでしょう。そのつけは、私達の子供、孫、それ以降の世代に引き継がれるのです。

 

書評と言うよりは、ほとんど本書に刺激されて私が考えたことになってしまいました。もちろん個人個人の性格、能力、志向によって提案の適合度は違いますが、私は結果的にほぼ本書提案のタイミングで転進しているため、非常に納得感があります。是非皆さんも一読して、考えてみてください。

ものづくりドットコムのコンセプト

2020年5月29日ものづくり.com

ものづくりドットコムトップページ|ものづくりドットコム創業者のブログ【技術者のキャリア設計】製造業・理系工業系・研究・開発・設計・開発・生産エンジニア向け

ものづくりドットコムを公開して7年半になります。

そもそも品質工学のコンサルタントとして個人事業を始めた私が、東京農工大学のMOT(技術経営)大学院に入学してみたら、ビジネスプランを作れというカリキュラムになっていて、そこで考えたのがこのものづくりドットコムです。

当初の基本コンセプトは、コンサルタントなど専門家のノウハウを製造業に広く届けることでした。
その点では、解説、事例記事が4000件を超え、毎日4000人に利用されている現状は、当初イメージと大きくは違っていません。
しかしそれを糸口に、製造業関係者、特に中小企業に気軽にコンサルタントを使ってもらうという点ではあまり大きな成果を上げていません。問い合わせは増えてきましたが、どちらかというと比較的大きい企業が専門分野の人材を照会してくることが多い状態です。
まだまだ、気軽にコンサルタントを使いこなす状態を作り出せておらず、コンセプトの練り直し、もしくはシステム設計を見直すとともに、製造企業との信頼関係構築が必要と感じます。

その一環としても、このブログに私が考えていること、感じていることを掲載して、共感できる方から意見、相談が届く契機になることを望みます。

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その10最終回 まとめと振り返り)

2020年5月7日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え最終回は、キャリア全体を通じて見えてきた風景です。40年に渡る技術者人生を振り返ると、期待と失望、挑戦と達成感の繰り返しであり、キャリアを重ねた結果としてより高い目標が見えてくるように思います。

キャリアから見えるもの

ここまで私は、自分の技術者キャリアについて書き綴ってきた。そのキャリアを振り返ると、私自身が多くの失敗によってどん底の状態に落ち込み、それから這い上がる努力を行い、ようやく安全圏に入ったと思った瞬間にまた谷底に落ち込み、あがいてきた姿が見えてくる。 そして、這い上がりのプロセスにおいて、 数多くの挑戦を行ってきたことがわかる。そんな挑戦に私を駆り立てたものは何だったのだろうか。

心の奥底にあるもの

「君の成績だと、将来とても国立大学には入れない。」私が中学2年生だったとき、進路指導の際に学級担任から出た言葉だった。一瞬それに反発を覚えたものの、きっぱりとしたその口調は、私には動かしがたいものに受け取れた。当時の私の成績は、学年で中の上ぐらいで、あまりよいとは言えなかった。学級担任の言葉は、それらのデータに基づいていたのだ。その後、高校入試に向けて勉強したが、 目指した公立高校は不合格となり、高専に行くことを決めた。このとき、私の心の中に「自分はやはり大学にいけない」とはっきり刻み込まれることになった。身近に大学を目指す先輩がいて刺激を受けたことは間違いない。しかし、それはあくまできっかけにすぎず、本当のドライビングフォースではなかった。当時はわからなかったが、中学校の学級担任の言葉への反発がその根底にあったようだ。「先生が言ったことは本当だったのか」という思いがあり、それが時を経るとともに、心の中でどんどんと膨れ上がっていたのだ。おそらく、自分の進む方向について、他人に断定的に方向づけされたことへの嫌悪感であったのかも知れない。

当時の私の成績からすれば、担任の判断は妥当であった。だが、中学生の私には、 学級担任の言葉は、評価をする人としてある程度支配力があり、それから開放されるのに、その後相当な努力と時間を要したことは事実である。学級担任の一言が、こんなにも私に影響力を与え続けたとは驚きであった。

私を突き動かしたもの

エンジニアリング会社に勤めてから、論文ドクターの取得に挑戦したことも、もとをたどれば師弟関係にゆきつく。大学院時代に、指導教官からあまりよい評価を受けられず、研究者として今後キャリアを積んでいくことに自信を失ってしまった。当初は、博士課程に進み高専の教官になることを目指していたが、それも断念してしまった。

指導教官から受けた指摘は、私の心に傷として深く残り、なかなか癒えることはなかった。そして会社に就職して研究者として自信がつき始めたころにやっと、「本当に研究者として劣っているのか。」という疑問が沸き起ってきた。それが論文ドクター取得へ私を突き動かしたのだ。大学院生であった私は、中学時代と異なり自分の個性を確立しつつあったのに、自分で思っている以上に指導教官の影響を強く受けていたのだ。おそらく、工学系の大学院では、師弟関係が徒弟関係に近く、指導教官の学生に対する影響力が特に強かったためであろう。

それでは、エンジニアリンング会社からD化学に籍を移し、知的財産の専門家を目指したときは、どうだったのだろうか。そこには、上司部下の関係が大きく影響していた。「君のような常識のない人間は当社の幹部として取り立てるわけにはいかない」というある上司の言葉がきっかけとなっていたと思う。

もともとは、私がその上司をドクターの公聴会に呼ばなかったが原因だった。そのため、そのまま在籍しても会社における技術者としての私の評価は上がらず、活躍の場が見つかるとも思えなかったことが、会社を移った動機であった。そして、D化学では単に技術者として業務を行うだけでは、活躍できる見通しが立たなかったので、リスクは承知の上で、経験のない知的財産の専門家を目指したのである。

以上のことから、師弟関係や上司部下の関係の中で、自分への評価が行われる場合、その評価に対して自分で納得できないときに「本当にそうなのか」という疑問が沸き起こってきたことがわかる。また、それがドライビングフォースとなって、新たな挑戦を行ってきたことも浮き彫りとなってきた。しかも、いずれも長い期間を経てようやく目的が達成されるような、大きな挑戦でもあった。

もう一つの要因

しかし、私を挑戦に駆り立てたものは、本当にそれだけだったのだろうか。ふと、日本原子力研究所に派遣されたときのことを思い出した。原研に出発する間際に、社長から「君には、研究所に行って隔膜の技術者として修業を積んできてもらいたい。」と声をかけてもらった。
実はこのテーマは、会社の存続をかけたプロセス開発に関係するものであった。しかも別の候補者が決まっていたにもかかわらず、入社して間もない私にその任を託されたこともあり、「自分は期待されている」という想いで心が満たされた。そして、その期待に応えるために、新規な隔膜の合成研究に専念した。新人である私が、派遣先で孤独な研究生活に耐えられたのも、自分への“特別な期待”を感じていたからだ。

そう言えば、もう一つ同じような経験がある。D化学に移ってからしばらくたったころ、ある上司から「突然ですが、訴訟対応のために米国にいってもらえないでしょうか。」と言われた。その当時、D化学は米国の会社から特許権侵害で訴えを起こされており、その対応が急務となっていた。D化学にとって初めての米国での訴訟対応であり、誰を訴訟担当として米国に派遣するかが会社にとって重要な課題となっていた。その上司は、私が知的財産に関心をもっていたこと思い出し、一研究員の私にそれを託したのであった。

訴訟対応には高度な専門知識と経験が要求されるので、研究員をいきなり訴訟担当に任命することはあり得ず、そのような決定をすること自体リスクがあった。それを承知の上で私を訴訟担当としたのは、将来のD化学にとって必要な人材となってほしいという“特別な期待”があったからだろう。私も未知の仕事で不安感に襲われたが、約3年間にわたり特許駐在員としてワシントンで業務を全うできたのも、そんな期待に応えたいという想いがあったからだ。

このように、私を挑戦に駆り立てたもう一つの要因は、「特別な期待に応えたい」というものであった。「それは本当か」に根ざす挑戦が、期待されていない状況での這い上がりであったこととは対象的である。這い上がりでは、いったん落ち込んだ状態から、リベンジするという重苦しい印象があるが、「特別な期待に応える」に根ざす挑戦では、今の状態からさらに高みに登るという晴れやかな印象がある。このして見ると、今まで私が行った挑戦の奥には、「特別な期待に応える」という陽の部分と、「それは本当か」という陰の部分の二面性が潜んでいて、それぞれの役割を演じていたことがわかる。

納得のいくキャリアとは

「自分がなにをやりたいのか」という問いを自らに発しながら、悩みつつ歩みを続けているうちに、ふと振り返るとわだちのように刻み込まれたもの、それが「キャリア」であった。そして、そのわだちには、今まで自分が行った数多くの挑戦の結果も刻み込まれていた。だが、それは決して成功例だけではなかった。たとえば、高専時代に描いた「高専の教官になる」という挑戦は実現せずに途中で挫折している。ドクターを取ったあとも現役の技術者として能力に陰りを感じ、知的財産の専門家となるべく方針の転換を行っている。現役の技術者として生き延びるという観点からすれば、やはり挫折している。

しかし、それらの失敗例を含め今まで私が行った挑戦は、自身のキャリアに彩りを添えている。もし、それらの挑戦がなければ私のキャリアは味気ないものだったに違いない。そういう意味で、これまでのキャリアに対して悔いはないし、これからも挑戦を続けて豊かなものにしたいと思っている。
本連載を通して、私が行った種々の挑戦を言わば「実験レポート」のように記述し、自分にとって心の痛みとなる部分もあえて紹介した。そうしないと「実験レポート」としての価値が失われると考えたからだ。この「実験レポート」が、これから技術者としてキャリアを形成される方々にとって役立つことを願って筆を置きたい。

技術者人生は縦走登山のようなもの

出典:「現代化学」(東京化学同人)2006年12号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その9 管理系職種への転向)

2020年5月6日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第9回は、技術専門職から知的財産という管理系職種への転向に関する経緯です。

転機の訪れ

「突然ですが、訴訟対応のために米国に行ってもらえないでしょうか。」ある日、研究開発担当のK役員から相談を受けた。当時の私は、エンジニアリング会社からD化学に移って約1年間半が経ち、技術者としてどのように生きるか迷っていた時期であった。K役員の言葉は柔らかであったが、私の心に訴えるものがあり、その場で思わず「わかりました。行かせていただきます。」と返答した。これが私にとって技術者としてのキャリアに節目をつけ、知的財産分野に移るきっかけとなった。

米国で吹き荒れる訴訟のあらし

D化学が米国で訴訟に巻き込まれたことには背景がある。1980年代半ば、米国は財政赤字と貿易赤字を抱えており、その原因の一つは、日本を含む外国企業が米国の特許を無視して安い製品を輸出していることにあるとされていた。そこで、米国は国策として、特許を含む知的財産権の強化・拡大を計った。その結果、特許を持つ人の権利が強くなり、莫大な損害賠償金を獲得することが可能となったのだ。そんな状況の中で、特許を使って他社を訴えて金を儲けるパテント・マフィアとよばれる人々が現れた。

D化学は、そんなパテント・マフィアの一つに狙われたのであった。そのパテント・マフィアは、他社が発明した特許を購入し、その特許で米国の裁判所に訴えを起こし、法外な損害賠償金を請求してきた。いったん、訴訟が始まれば、原告と被告の間で裁判に使われる証拠の開示が行われ、莫大な量の文書がやりとりされる。D化学としてもその対応のために、米国の法律事務所に社員を派遣する必要が生じた。そこで、その候補として私が選ばれたのだった。
選ばれるにも理由がある

はじめは、「とにかく挑戦してみたい」という気持ちにかられた。しかし、あとで冷静になって考えると「本当に訴訟対応ができるのだろうか」という不安感に襲われた。それは、米国で特許侵害訴訟を扱うには、少なくとも米国特許や裁判の知識が必要となることはいうまでもないが、それ以外に訴訟の対象となっている部品の技術についての理解が必要となる。さらに、米国弁護士とのコミュニケーションが重要となるからだ。

しかし、一技術者にすぎない私は、そのような能力や知識をとても身につけているとはいえなかった。特許については、自分の発明を特許出願するために必要な知識しかなく、訴訟に関しては全く経験がなかった。訴訟の対象となっている部品の技術知識についても、専門分野が異なるのでまったくわからなかった。そして米国留学の経験があるとはいえ、法律分野の米国弁護士と話しが通じるか不安があった。

そんな状況であるから、「私にはとてもできません。」と断りを入れるのがふつうだろう。ましてや訴訟対応は、会社の損失をいかに減らすかということがポイントとなる。そのようなクレーム処理を引き受けること自体がリスキーであり、なるべくなら避けるのが賢明であった。では、なぜ引き受けたのか?

今から考えると二つの理由があった。一つは、当時新聞記事を賑わしていた米国での特許訴訟に関心を持っていたことだ。ちょうどそのころ母校である高専から「私の理想とする技術者像」という演題で特別講演を頼まれ、「日米間の特許訴訟を扱える人材が求められております。こういった特殊な人材に希少価値がでてくるでしょう。」と講演を締めくくっていた。このときは、まさか自分がその道を歩むとは予想だにしなかったが、技術と法律がわかり、交渉ができる英語を身につけている人材の重要性については理解をしていた。

もう一つの理由は、38歳となっていた私は、技術者の資質として重要となる頭の柔軟性や創造性に衰えを感じ始め、今後技術者としてどのように生きていくか、その方向性を見失なっていた。現役の技術者を引退し、今までの技術者として身につけた能力を活かしつつ、技術以外の分野で新たな能力を築く必要性を感じ始めていた。訴訟対応の申し出は、そんな状況にあった私には非常に魅力的な提案となったのである。

ところで、K役員がなぜ私を訴訟担当の候補としたのか不思議であった。会社には知財部門があり、ほかに候補がいくらでもいたからだ。さらに、私が訴訟担当に向いているという判断をするには、D化学における私の実績は少なすぎた。しばらくたってからK役員にその理由を聞く機会があった。K役員は、私がD化学に中途入社する際に、役員面接に立会ったことから私の事を覚えていて、社内の会議で私が米国特許訴訟に関心をもっていることを話したことも覚えていたのだ。このことを通して、実現したいことは心に思っているだけでなく、そのことを言葉や行動で表すことにより、本当に実現化することを実体験できた。

法律事務所での生活の始まり

K役員から打診を受けてから約1ヶ月後、私はワシントンD.C.の近郊にある特許法律事務所の門の前にいた。そして不安感を胸に抱きながら、おもむろにノックした。これから3年間駐在することになる法律事務所との最初の出会いであった。この法律事務所には、弁護士と特許の申請を行う弁理士が約50名おり、そのほかの職員をいれて約120名の人がいた。私は、そんな法律事務所の一室を借りて、訴訟対応を行うことになった。つい1ヶ月前までは、実験器具に囲まれた実験室が仕事場であったのが、今度は弁護士に囲まれ、書類を扱うのが仕事となった。劇的な環境の変化といえる。当面の仕事は、東京本社から送られてくる証拠書類を分類し、原告側に送るための準備作業を行うことであった。そのために、朝一番に東京本社から送られてくる書類を読み、弁護士と打ち合わせを行い、必要な事項を確認したあと、夜にその結果を東京本社に報告することが日課となった。最初のころは弁護士との打ち合わせが苦痛であった。留学経験があったので、通常の日常会話ならばそんなに緊張することもなかったが、打ち合わせでは特許や訴訟に関する専門語が多く出てくるので、言われたことが理解できずに立ち往生することが多かったからだ。

弁護士からすれば基本的なことを何も知らない東洋からの来訪者に、いささか手を焼いているようであった。質問すると、「なぜそんな質問をするのかわからない」という表情をになったり、さらに細かく聞くと怒り出すこともあった。しかし、私としては、走りながら必要なことを学ぶ以外に手段はなかったのだ。 新しい分野を学ぶ方法としては、知ったかぶりせず、わからない点を聞いていく方法は決して間違いではなかったと思う。

米国弁理士試験への挑戦

弁護士の言ったことが理解できないときに、とりあえずは質問することでその場はしのげるが、それは根本的な解決策とはならない。やはり私自身が、米国特許法と裁判に関する知識を体系的に身につけないかぎり、弁護士とのコミュニケーションが計れないと思い始めた。そこで、まずは米国特許法を学ぶために、弁理士試験に挑戦することにした。

弁理士試験は年2回行われ、午前と午後それぞれ3時間づつ行われる。午前の部では米国特許法に関する多岐選択問題が出され、午後の部では発明に関する説明文を読み、それをベースとして特許の請求の範囲を実際に書くという試験が行われる。合格ラインは午前と午後の試験でそれぞれ70点以上とれば合格となる。このようにある基準を満たせば、誰にでも資格が与えられる。 最初は、試しに受けてみるという軽い気持ちで臨んだが、とても合格レベルには到達せず、やはり本腰を入れて勉強しないと受からないと感じ始めた。

そこで、試験の半年前から週末を利用して試験勉強を始めた。発明が生まれてから特許が登録になるまでのプロセスをまとめ、それに特許法の条文を関係づけ、特許法の全体像を理解するように努めた。また、発明を特許の請求の範囲として表すために、実際にそれを作り、弁護士に添削してもらう形で技術を修得していった。そんな努力が実りようやく3回目の挑戦で試験にパスすることができた。この試験勉強を通して、米国特許法を体系的に把握することができ、弁護士と議論しても気後れすることがなくなったのは大きな成果であった。

法律事務所に着任してから3年後、無事任務を終え日本に帰国することになった。その間、担当した訴訟は判決が出る前に和解し、問題を解決することができたが、新たな特許訴訟も起こり、その対応も行った。やはり、原告はパテント・マフィアであった。さらに、訴訟には至らなかったが、米国企業とある技術を巡ってどちらが先に発明したか議論となり、最終的には互いの特許を実施できるような契約を締結し、問題を解決することもできた。 このように、着任した当時は技術者としての技量しかなかったが、その後、特許法と裁判の知識を身につけ、訴訟担当としての経験を積むことができた。法律という私にとって馴染みのない分野を学ぶにあたって、弁護士と同じ釜の飯を食べながら、実際の事件を扱い、新たなキャリアを積むことができたのは幸いであった。

今後は、知的財産を扱う専門家として技術と法律の交差する領域で活動することになる。そして、現役の技術者として研究業務を行うことはもうないであろう。そう言う意味で、米国駐在は私のキャリアにとって大きな節目となった。

知財専門家に転向

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年12月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その8 転職)

2020年5月5日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第8回は、入社11年目に訪れた転職の経緯です。

辞意の表明

「一身上の都合により、会社をやめさせていただきます。」入社後11年が過ぎたある日、上司である研究所長に辞意を伝えた。「なぜ、会社をやめるのかね。」と、所長は苦渋に満ちた表情を浮かべながら言った。その後しばらく会話が続いたが、所長の「この件はしばらく考えさせていただく。」という言葉で締めくくられた。そのとき私は、つぎの就職先も決めており、すでに退職する意志を固めていた。

些細なきっかけ

私が会社をやめたいと思ったのは、ある些細な事件がきっかけとなっていた。私はその時35歳であったが、数ヶ月前に工学博士の学位を受けていた。約3年間独りっきりで、 週末を使って自宅で学位論文の準備を行い、ようやく獲得した論文博士であった。個人的には、学位を得たことで、技術者として大きな自信を得たし、さらに自分を成長させたいという望みも出てきた時期でもあった。
「だれのおかげでドクターを取れたと思ってるんや。」S役員から意外な言葉が発せられた。実はドクターを取る際、自分の論文を審査する先生を前にして公聴会が行われる。この公聴会に、研究を遂行する上でお世話になった方に参加してもらうことがあるが、S役員はこの公聴会に呼ばれなかった理由を問うために私を別室に呼んだのだった。

その言葉に対して、その場でごまかして返答すべきではないと思い、「確かに、ドクターを取ることを勧めていただきましたが、論文もすべて自宅で準備し、大学への審査依頼や費用の支払いも自分自身で行いました。」と応え、S役員が実際何をやってくれたのかを質問した。ほかにも対応の仕方があったかもしれないが、すでに手遅れであった。そのとき、S役員は言葉をなくし、怒りをこらえながらじっと私をにらみつけるだけだった。そして、「君のような常識のない人間は、当社の幹部として取り立てるわけにはいかない。」と私に告げたのだった。

会社をやめた本当の理由

会社をやめたいと思ったきっかけは、小さな事件であったが、今から振り返って見るともっと根深いものがあるように思える。当時の私は、研究開発の仕事が一段落つき、ちょうど仕事の節目を迎えていた。そして、研究者としてさらに仕事を続けるのか、研究マネージャーとして今後キャリアを築くのか、あるいは事業部門で活躍するのかという岐路にたっていた。

だが、エンジニアリング会社では、開発部門でも事業部門でも装置の設計が行える人が主要なポストについており、私のように素材開発を行う技術者は会社の中ではマイナーな存在であった。もちろん、私自身が設計をできるように新たな能力を身につけるという道もあったが、今まで身につけた技術を活かしたいという望みのほうが強かった。

また、自分では気がつかなかったが、私の内面にも変化が起こりつつあった。その変化は、意外なところからもたらされた。当時、私は大手のM化学と共同開発を行っていた。開発は順調に進み、目的とする装置が完成したのを記念して、M化学の技術者と懇親会が行われた。その席で、「百瀬さんは、今のままではだめですよ。他に進路を考えるべきです。」と、M化学の担当部長からそっと話しかけられたのだ。その部長は、私の能力を伸ばすには、エンジニアリング会社では限界があり、もっと別な会社で活躍の場を見つけるよう助言したかったのであろう。このような他の会社の人からの助言は、予想外に私の心を揺さぶった。それと時期を同じくして、母校の指導教官からは、「ドクターも取ったことやし、そろそろ次の場所を考えたらどうや。」という言葉をもらっていた。

こうして私自身、エンジニアリング会社では成長する場が狭くなり、新たな活躍の場を求め始めていたのだろう。今から考えると、S役員との事件は、私に会社を飛び出すきっかけを与えてくれたにすぎない。しかし、もしそうしたきっかけがなかったら、会社をやめることはなかったであろう。

退職を決心した私は次の就職先を見つけるために、人材バンクに登録をした。求職の条件を提示し、人材バンクからその条件に関心を示した会社の情報が送られてくるというシステムになっていた。そして約半年で6社の面接を受けた。最初の面接では、人事の担当が対応するのが普通であるが、D化学では人事とともに研究所長も同席しており、それだけでも意気込みが感じられた。最終的に、D化学に入社することになったが、まったく知り合いがいない会社でうまくやれるか、一抹の不安を感じた。

新たな会社での生活の始まり

翌年の4月より、現在も勤めているD化学に入社した。主任研究員として研究所の配属となり、研究テーマとしてはプラスチック関係を扱うことになった。以前の会社では、研究員は10名足らずであったが、新しく移った研究所では2百数十名の研究者がおり、大きな研究所と言える。

いよいよ新たな職場での研究生活が始まった。しかし、実際研究を始めようとすると具体的に何から手をつけてよいかわからず、途方にくれてしまった。隔膜の技術分野であれば一通りの知識を身につけているので、新しいテーマでも特に問題なく取り組めたであろう。しかし、プラスチック関係ということで、今までの知識があまり使えなかった。技術分野が少し異なるだけで、戸惑いを感じる自分に対して、驚きを感じた。

さらに、新しい会社でどのようにふるまってよいかわからず戸惑った。たとえば以前の会社ならば、技術的にわからない点は、誰に、どのように聞けばよいかすぐわかったが、それすらわからないのである。人に仕事を依頼する場合も、どのように頼んでよいかわからず、右往左往した。新入社員ならば、上司の指導を受けられるが、私自身が主任研究員として研究者を指導する立場にあるので、人に教わることに引け目を感じたのだ。
逆に考えれば、まわりにいる人たちも、私に対してどのように接したらよいかわからず、戸惑いを感じていたかもしれない。

そのときに、「会社をやめるのは簡単であるが、新しい会社に入ってからが大変」という意味がようやく理解することができた。研究テーマについては、関連する文献を読みながら比較的短期間で方向性を見い出せたが、会社の中でのふるまい方については、職場を観察しながら、少しづつ学んでいくしかなかったので、1年間ぐらい時間を要した。 日本の職場では、仕事の内容がマニュアル化されていないので、中途入社した人が不文律を学ぶ方法は、まわりを観察するという方法以外にないのだ。

会社を変わって感じたこと

会社を移って強く感じたことは、会社はそれぞれ独自の文化をもっているいうことであった。たとえば、社内の人の呼び方一つをとっても、D化学ではすべて「さん」づけで呼んでいた。単に同僚の間だけでなく、役員と従業員の間も例外ではない。以前の会社でも「さん」づけが行われていたが、それは部下が上司を呼ぶときに使われていたにすぎず、逆に上司が部下を呼ぶときには上下関係を明確にするために「君」が使われていた。新しい会社で、役員から「さん」づけで呼ばれた時には新鮮な感じを覚えた。単純なことだが、この「さん」づけには大変助けられた。もし「君」づけが行われていたなら、組織内の上下関係をすべて理解しなければならず、相当な労力をかける必要があっただろう。

もう一つ感じたことは、技術者としての能力の限界についてである。そのころ私は隔膜の技術者として、学会から特別講演を依頼される程度までになっていた。その実績からすれば、多少専門分野が異なっても研究が行えるであろうと高をくくっていた。しかし、実際異なる研究テーマに取組んでみると、それに必要な専門知識のなさを実感するとともに、これは相当力を入れなければ研究者として生き残れないのではないかと感じ始めた。

こんな想いとは裏腹に新しい知識がなかなか身につかなくなっていることも感じ始めていた。二十代後半に日本原子力研究所に派遣され、隔膜の合成技術を身につけたころは、特に意識しないでも、どんどん新しい知識が吸収できた。私も既に36歳を過ぎ、研究者にとって最も重要な資質である頭の柔軟性や創造性が徐々に衰えつつあったのだろう。

このように、D化学に移り、最初はその組織の文化に馴染むことや、新しいテーマにどう取組むか頭がいっぱいだった。しかし、多少精神的に余裕がでてきたときに「そもそも私は何のために会社を変わったのだろうか。本当に自分の成長につながるだろうか。」という疑問が湧いてきた。特に今後技術者としてどのように生きていったらよいか、その方向性を見失っていた時期だったので、しばらくは鬱屈した研究生活を送らざるを得なかった。そんな時期にある転機を迎えることになる。

転職で器を大きくする

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年11月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その7 博士取得への挑戦)

2020年5月4日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第7回は、論文博士取得の経緯です。

新たな転機

会社に入社して7年が経ち、業務も軌道に乗ってきたころ、ふと疑問をもった。「今のままでよいのか? 何かほかにすべきことはないのか。」いままで私の心の奥底で“しこり”となっていたものが、意識の中に上ってきたようだった。いったんこの問いが心にもち上がると、その答えを得ようと物思いに耽るようになった。そして最終的には、私がいままで試みた中で、最も困難で労力を費した「ドクター取得への挑戦」へと結びついていった。

心のわだかまり

その“しこり”とはいったいど何だったのか。それは、大学院の修士時代の苦い想い出に根ざす。当時の私は、指導教官からよい評価が得らず、研究能力が劣っていることを自覚したことから、博士課程に進むことを断念した。そして、将来研究者として仕事をしていくことにすら、自信を失った。これは私にとって明らかに挫折とよべるものであり、心の奥底に刻みこまれたのだった。
しかし、そんな“しこり”が、なぜ後になって頭をもたげたのであろうか。おそらく、その当時感じた挫折感を客観的に捉えることができる時期に達していたのだろう。そして「自分の研究能力が足りないという前提自体は本当に正しかったのか。」という素朴な疑問がわいてきたのだ。それに対して「そうではなかった。」と言い切るためには、何か客観的な裏づけが必要である。そこで考えたのがドクターの取得であった。しかし、31歳の私は、仕事も忙しく、とても大学院に通う時間的な余裕はなかった。そこで、大学院に通わずにドクターを取る、“論文ドクター”に挑戦することにした。

論文ドクターへの挑戦

いまでは一般的ではないが、少し前までは、会社に勤めながら学術誌に論文を掲載し、それをもとに学位論文をまとめ、大学で審査してもらってドクターを取る方法があった。そのためには、まず自分の究成果を学術誌に論文掲載することが重要となる。大学によって異なるが、論文ドクターの場合、博士課程で求められるよりも多くの学術論文が必要とされる。これに加えて指導教官の指導を受けられないため、この方法でドクターを取ることは至難の技といえた。しかも私の場合、いままで学術雑誌に掲載された論文は一つもなく、まったく一からの出発となった。

そこで、まず日本原子力研究所に外来研究員として派遣されていた時代の研究成果を使って最初の学術論文を作成することにした。無名の研究者であった私は、そのことがハンディーとならない米国の学術雑誌に投稿することにした。 最初は、論文のまとめ方すらわからなかったので、関連する論文を集めてきて、論文の構成、データのまとめ方や考察の仕方を学び取り、試行錯誤しながら論文にまとめていった。特に相談にのってもらえる人もまわりにいなかったため、あるときは学生、あるときは先生という役割を演じながら論文を作成していった。このような形で進めたので、最初の論文の原稿を仕上げるのに8ヶ月間もかかってしまった。

だが、これですぐに論文が掲載されるわけではない。論文の内容やレベルがその雑誌に合わない場合には、編集者から「この原稿は掲載する意志がない。」との返事がある。私の初めての論文は、幸いにも受理された。ところがしばらくして、二人の論文査読者からコメントが送られてきた。その内の一人から「この研究成果は学術上あまり意味がない。」と厳しい意見をもらったときには、「この先どうなるのだろう。」と不安感を抱いたものだ。しかし、研究の意義をアピールするための論拠をそろえ、査読者に粘り強く説得を行った。そんな努力が実り、最初の学術論文はなんとか雑誌に掲載されたが、論文作成に着手してから約2年が経っていた。

最初の学術論文で自問自答をくり返したおかげで、論文の構成や表現方法をつかんだ私は、その後、 順調に学術論文の作成を進めていった。そして、論文作成に着手してから3年間で目標とした7報の学術論文を米国の学術誌に掲載することができた。もし、最初の学術論文の作成に失敗していたら、それがつまずきとなって、論文ドクターを取ることは無理だったろう。このようにドクターを取る場合、最初の学術論文をいかに仕上げるかが重要となる。

もう一つのハードル

7報の学術論文をそろえた私の前につぎのハードルが迫ってきた。公表した学術論文をまとめてドクター論文を作成し、大学で審査を受けなければならないのだ。ここで重要となることは、どこの大学にドクタ−論文の審査を依頼するかである。通常、まったくつながりのない大学と比べ出身大学のほうが有利と言える。しかし、私は出身大学に依頼することにためらいがあった。それは、大学院時代に指導教官と価値観の違いに根ざす対立があり、口論が絶えなかったからだ。しかし、前述した“しこり”を払拭するためには、この指導教官との対話を避けることはできないと考え、まず指導教官に相談することを決意した。

「これやったら何とかドクターとれるやろ。」これが最初に指導教官から出た言葉であった。修士時代には厳しい評価しか得られなかったので、今回も「これではぜんぜんあかん。」と言われるのではないかと不安に思っていたが、この一言で大いに勇気づけられた。しかも、その後の大学における論文審査を行う主査と副査を決めるなどの段取りを整えてもらい、非常に助かった。いまでも指導教官とは価値観は異なると思うが、論文ドクターの取得に関してはメンター(助言者)としてなくてはならない存在であった。もし、出身大学ではなく、ほかの大学に論文審査を依頼していたら、ドクター取得は難しかったでかもしれない。それは副査の先生の「ぎりぎりで審査にパスした。」という言葉から推察がつく。

成功に結びつけるための工夫

今から思うとよくドクターが取れたものだとつくづく思う。実は、論文をまとめる以外にもいろいろな工夫が必要だった。たとえば、ドクター論文のドラフトが完成するまで、論文ドクターの件は会社に報告せず、自称“ヤミプロジェクト”として進めた。 会社にとって前例がないことなので、いきなり「ドクターを取らせて下さい。」と言ってもなかなか理解してもらえないと思ったからだ。 結局、「そこまで準備をしているならば取ったらどうか。」ということになり、無事許可を得た。それ以外にも、働きながらドクターを取るゆえの工夫が必要であった。

私の場合、平日は会社で業務を行っているので論文を纏める時間はない。そこで、週末に自宅で論文をまとめなければならなかった。最初のころは週末になると「論文を纏めよう。」と意気込んでいたが、実際にはほとんど作業が進まなかった。そんな状態がしばらく続き、しだいに焦りを感じ始め、作業が進まない原因について考えを巡らすことになった。

そのころの仕事場は、研究室ではなく製造現場に近いところであった。一方、論文をまとめる作業では、反応機構など分子レベルの議論等を行うので、現場にいる時と違い、学術的な思考が必要となる。そのため、会社で業務を行うときと、自宅で論文を書くときの頭の使い方が異なり、その切り替えがうまくいっていないのではと思い至った。つまり平日業務を行うための思考には慣性が強く働いており、その慣性ゆえに週末に別の作業、得に思考パターンの異なることを行おうとすると、頭の切り替えがしにくく、やる気が起こらないと考えた。

そこで、平日は会社の業務に専念し、なるべく週末に会社の業務をもち込まないようにした。そして論文をまとめる作業の前には、日常業務の思考の慣性を断ち切るための工夫をすることにした。具体的には土曜日の午前中は家の周辺を散策し、業務のことを忘れる努力をした。また、午後から論文作成を始めるときには、いきなり執筆にとりかかるのではなく、先週纏まとめた部分を読み返すなどの単純作業から入り、頭が馴染んできたところで徐々に論文を書ける状態へともっていった。このように工夫しても週末に論文を書くために6時間程度を捻出できればよいほうであった。

さらに問題なのは、自宅の環境であった。そのころは、3DKのアパートに住んでいたが、結婚し子供も一人いて、自分の勉強場所をいかに確保するかが重要となった。まず、小さな机とワープロをそろえ、部屋の一角に勉強できる空間をつくり、本箱には必要な論文や図書を集め、こじんまりとした研究室を作った。そして、約3年間、週末を論文作成のために使い、家族と外出する機会も自然と少なくなった。ドクター論文作成においては、このような家族の協力を得ることも不可欠であった。

このように30代前半という、精神的にも体力的にも充実した時代に、論文ドクター取得という、キャリア形成上大きな挑戦が行えたのは幸いであった。この挑戦があと5年遅れていれば、ドクターの取得は実現しなかったであろう。そして、「研究者として劣っている。」というコンプレックスを心に抱きながら、技術者としての生活を送っていたであろう。ドクター取得を成し遂げた後、しばらくは「何もしたくない」という状態が続いたが、目標を達成したという充実感に助けられ、しばらくすると心の内面につぎへの飛躍のための夢が膨らみ始めた。

業務の合間を縫って研究論文作成に励む

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年10月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その6 米国経営学大学院時代)

2020年5月3日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第6回は、米国経営学大学院時代の奮闘記です。

異なる学問分野への不安

「技術者である私が、経営学など理解できるのだろうか?」米国の大学院入学の前に、私は不安を感じ始めた。今まで、経営学を学んだこともないし、基礎知識もない。しかも言葉の壁がある。 数ヶ月間語学学校で学んだが、まだリスニングは充分でなかった。たとえそんな状態であっても大学院での生活が始まる。いったいどうすればよいのだろうか。

ビジネスプログラム始まる

5月末、ボストンでの語学研修を終えた私は、 イリノイ州へと向かった。その途中の風景は、陸上で地平線が見えるくらいに真平であり、そこにコーン畑が延々と続いていた。夕日が沈むときには一斉にそのコーン畑が照り輝き、まさに大地という印象を受けた。私が入学するイリノイ州立大学は、そんなコーン畑に囲まれた学園都市の中にあった。

私が受けたビジネスプログラムは、日本の経済団体とイリノイ州立大学が協力して開設したものであった。大学院で1年間経営学の授業を受けて単位を取得するとともに、特別授業や会社訪問などを通じて実際のビジネスの現場にも触れられるようにプログラムが組まれていた。修士の学位は取得できないが、プログラムの修了証が発行される。

このプログラムには、日本企業からは14名の参加者があった。大半は企画、経理、営業の出身者で、技術者は私を含め、わずか2名であった。参加者の一人は、このプログラムを受けるために、社内公募に応募し、約200名の応募者の中から1名だけ選ばれたとのことであった。その選考にあたって、語学力とともに経営学を学ぶ基礎があるかが判断されたことはいうまでもない。技術者の参加者が少なかったのは、おそらく最初から選考の対象外とされたのではなく、文系出身者との競争において勝てなかったためであろう。

もし私がその会社の社員であったとしたら、語学力が劣り、経営学の基礎ができていないので、とても留学生として選ばれることはなかったであろう。私が所属した会社は、全社員で50名程度であったので、ほとんど競争がない状態で選ばれた。このように、技術者として経営学を学ぶ機会が与えられたことは、非常に恵まれていたといえる。しかし、そのことに気がついたのは、留学を終えて一段落ついてからであった。留学当初は、馴染みのない経営学をいかにに学ぶか、それで頭が一杯だったからである。

授業での悪戦苦闘

8月から大学院での講義が始まった。私の場合、受講する科目を多くすると消化不良となる可能性があったので、会計学、マーケティング、ビジネスコミュニケーションに絞った。米国の大学では、授業の設計がよくなされており、ボリュームもある。そのため、学生も真剣にならないとよい評価が得るのはもちろん、単位を取ることも難しかった。私が最も苦手とした会計学ではどうだったのだろうか。

授業の初日は、教授からシラバスを用いて授業の進め方について説明があった。シラバスというのは、授業の日程、おのおの授業で取扱う課題、予習の範囲、議論するケースの範囲などが一覧表になったものである。シラバスを見れば、その授業のコンセプトや授業方法がわかるので、教授にとっても学生にとっても非常に重要なツールとなる。日本の大学でもシラバスはあったが、このように綿密なものを見るのは初めてであった。

2回目では、会社の財産状態をするためのバランスシート(貸借対照表)に関する授業が行われた。教科書の予習の範囲は約50ページであり、状況設定と設問からなるケースについての準備を行う必要があった。私は、もともと会計学の知識を全く持っていなかったので、まずは教科書をじっくり読んでその内容を把握することに努めた。幸い、教科書を順に読んでゆけば、会計学の知識がなくても理解できた。それは、米国では経営学の修士課程は専門職大学院として位置づけられており、技術系を含め学部の専攻が異なる種々の学生でも理解できるように教科書が書かれてあるからである。ケーススタディーの準備には時間がかかるが、教科書で得た知識を応用すればなんとか準備できた。この授業の準備だけでも5時間ぐらいかけた。

問題は実際の授業であった。教授が説明する部分は、事前に教科書を読んでいけばおおよそ理解ができた。しかしケースの議論に移ると、教授と学生が活発に議論するので話しの筋が読めず、ほとんど理解ができなかった。 かろうじて教授が黒板に書いたことから内容を類推するしかなかった。こういう調子で半年間授業を受け続け、約900ページの会計学の教科書を読み、ケーススタディーも一通りこなし、2回の試験を受けて、ようやく単位を取ることができた。今では、その内容について詳細は覚えていないが、ぼろぼろになったその教科書から、当時いかに悪戦苦闘したかをうかがい知ることができる。

米国の学生はなぜよく勉強するのか?

授業にもなれ精神的に余裕がでてきたころ、ようやく周囲の様子が見えるようになってきた。まず感じたことは、各授業でいつもある種の緊張感がただよっていたことだ。日本の授業風景と大きく異なり、寝ている学生は一人もいない。米国の学生は時間を惜しまず予習を行い、ケ−スに対して自分なりの意見を準備している。それは、通常図書館が夜10時ごろまで開いており、学生がそこで勉強するために学習机を奪い合っている状況からもうかがい知れる。そこまで準備して授業に臨むので、授業中寝ることは到底考えられないことである。

一方、教授は講義とともに、ケーススタディーを通して学生との対話の機会を授業に盛込んでいた。教授は学生が考えた解決策に対して、複数の視点から物事を見るように促した。それに対して別の学生が違った観点からの解決策を投げかけ、またそれに対して教授がコメントするということで授業が進められる。その過程で、学生は物事の本質をいかにつかむかについてその方法を体得する。このように授業では対話が重要な役割を果していた。ときどきジョークが飛び交い一見和やかに見えるのであるが、実は教授と学生の真剣勝負が行われており、それが緊張感の源となっていた。

「それにしても米国の学生はなぜよく勉強するのだろう。」そんなことを感じていたある日、同じクラスの米国人のJさんと雑談する機会があった。彼はもともとほかの大学で化学を専攻し、卒業後化学会社に勤めたという経験を持っていた。米国では、学部卒であると、正規の研究員ではなく、実験補助員として扱われるのが普通である。彼もその例外ではなく、その会社では分析技術者として働いていた。しかし、数年働いてみて、開発マネージャーとして働きたいと思うようになり、その会社をやめて大学院に入ったとのことであった。おそらく彼は、経営学修士号を得たのち、希望するポジションを得るべく働きかけをするのであろう。

実は、クラスではJさんのようにすでに働いた経験のある学生が大半であった。働きながら大学院にいくための資金を貯え、そしてキャリア・アップを図るために、大学院に学びに来ているのである。そのような学生にとっては、将来専門家として働くために、必要な能力や知識を得ようと身銭を払って授業を受けているのである。そんな背景を知ると、米国の学生がなぜ真剣に勉強するかが少しずつ理解できるようになった。今まで、私にはそのような感覚はなかったので、目からウロコが落ちる思いであった。

経営学から何を学んだのか?

技術者である私がこのプログラムを通して得たものは何であろうか。留学する前は、経営学がどのようなものかまったくわからなかった。さらに、「技術者がなぜ経営学を学ばないといけないのか?」という疑問が心の中にあった。むしろ、留学であれば技術系の大学で研究する機会を望んでいた。そんな私が、このプロブラムを受けてよかったと感じたことは、会社を一つの生き物(組織体)とみて、その経営状態や会社を発展させるためにどのような方策を取るのか考える、そういった視点を得たことにある。

留学したとき私は30歳であり、 会社に勤めて6年たっていた。それまで自分の研究テーマをどのように展開するかについては考えてきたが、会社にとってそのテーマがどのような位置づけにあり、どのような意味をもつかを考えてみたことはなかった。 研究も会社の活動の一つである以上、当然考える必要があるが、どうもその視点が欠落していたのである。そういったことを改めて自覚させられた。

さらに、米国において専門家がどのようにキャリア・アップを行うのかを身近にみることができた。専門家として、自分の望むポジションを得て、納得のいく仕事をしていくためには、それに必要な能力や知識を獲得し続けなければならないのである。しかし、一方で日本ではそんなことができるのだろうかとの疑問も湧いてきた。その当時は今ほど社会人大学院が充実しておらず、働きながら学校で学ぶのは難しい状況であったからである。

留学のために日本を出発してから1年数数ヶ月後、家族とともに日本に帰国することになった。大学という自由な環境から束縛の多い日本社会への復帰である。東京に向かう飛行機の中で、私自身、専門家として今後どのように生きて行くのか思いを馳せながら帰国の途についた。

大学院での会話についていくのは大変だった

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年9月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その5 米国留学への挑戦)

2020年5月2日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第5回は、米国経営大学院への留学前半です。

未知の経験への不安

「日本の社会を離れ、米国で一人でうまくやっていけるだろうか?」出発の日が近づくにつれて、このような不安が心の中に芽生え、そして膨らんできた。文化が異なる外国で暮らすことは私にとって未知の経験である。それゆえに、今までの自分が経験し学んだことが通用しないことに遭遇するであろう。そのようなとき、どう対処すればよいのであろうか。

新たなチャンス

日本原子力研究所での外来研究員としての役割を終え、会社に復帰してから1年が過ぎたころ、突然担当部長から、「今度君には米国の大学で経営に関する勉強をしてもらうことになったので、現在の業務を引き継げるようにして欲しい。」と告げられた。派遣先から戻り、仕事は順調に進んでいた。これから私を中心に、隔膜の開発を本格的に進めようという矢先であっただけに、この部長の言葉は意外であった。部長としても、開発が順調に進み出した時期でもあり、私を海外に出すことに反対のようだった。しかし、社長の「留学というのは、行ける時に行かないと機会を失する。」という方針に従い、私の米国留学が決定された。

この留学は、会社から毎年社員を1名米国に派遣し、語学研修を受けたのちに米国の大学院に1年間在籍させ、経営学の単位を取得させるものであった。私の場合、もしこの時に開発を優先し、留学の時期を遅らせる決定がなされたならば、二度と米国留学は実現しなかったであろう。 なぜなら、私の派遣を最後に、この留学制度は見直されることになったからだ。最後の留学生として、かろうじてチャンスが巡ってきたのである。

サバイバルゲームの始まり

29歳の3月に、私は成田空港から米国に向かって出発した。まず、ホノルルで入国審査を済ませ、 サンフランシスコ経由でニューヨークへ行き、最終目的地であるボストンへと向かった。乗り継いた関係もあり、ボストンの空港に着いたときには、 成田を出発してからまるまる1日がたっていた。充分な睡眠がとれなかったこともあり、体がだるく休息をとりたい気分であったが、その足でボストンの郊外にある英語学校へと向かった。

学校に到着後、クラス分けのための試験が行われた。英語の能力によって4つのクラスに分かれており、私は下から二つ目のクラスに入ることになった。試験が終わってから、ホームステイ先の案内があった。事務員から何件か候補の家が示され、この中から自分の気に入った所を決めるようにと説明があった。だが、これらのホームステイ先は学校の周辺にあるとはいえ、とても歩いて回れる距離ではなかった。私は一瞬どうしてよいかわからず、事務員の顔を見たが、その固い表情からは「自分でなんとかしなさい。」としか読み取れなかった。その日に決めないと寝る場所が確保できないので、非常にあせりを感じた。このように、米国での1日目は、まさにサバイバルゲームの始まりであった。

そのとき、たまたま事務員とのやりとりを聞いていた日本人のOさんが声をかけてくれ、車で案内してくれたので、なんとかホームステイ先を見つけることができた。Oさんは、数カ月前からこの英語学校で勉強していた人だった。もしこの人がいなかったらどうなっていたのだろうか・・

英語との格闘

この英語学校に通うことになったのは、 大学院の入学許可を得るのに必要な語学力を養うためであった。英語の能力を調べるために行われる試験(TOEFL試験)で520点以上が入学には求められていたが、私はそれをクリアーしてなかった。日本出発前に受けた結果では430点だったので、約100点上げる必要があった。そして7月末までに、クリアーできないと、大学院の入学許可がおりず、米国に来たものの、留学の目的を達することなく会社に戻ることになるので、私にとって大きなプレッシャーとなっていた。この留学には、会社からの期待とともに、家族の期待もかかっていた。もし、大学院に入学できなければ聴講生として滞在することになり、その場合には会社の規定により、家族を米国に呼ぶことができず、ずっと単身で生活しなければならなかったからだ。

このような状況で勉強していたにもかかわらず、私はなかなか英語に自信を持てなかった。それは、 高専時代あまり英語を勉強しなかったことと、普通の高校生のように大学受験というハードルがなかったため、集中的に英語を勉強する機会がなかったためである。高専では、専門分野に関する文献が読める能力があれば特に不自由することがなかった。中学校程度の文法と専門分野における語彙があれば充分で、それ以上の勉強をする必要性を感じなかった。しかし米国の大学院は、中学校程度の英語で通用するはずはなく、授業の事前準備のためのリーディングに必要な能力、講義を理解し議論する能力、ケーススタディーを報告書としてまとめる能力など、ハイレベルな英語の能力が要求される。520点というのは、それらの能力を最低限身につけているというレベルであり、実際にはそれ以上の能力がないと授業についていくことができない。

最初のころは、TOEFLの点数を100点上げることに、プレッシャーを感じていたものの、英語学校で勉強すればなんとかなるであとうと考えていた。しかし、5月に受けた試験では400点と逆に下がってしまい、このときはさすがに冷や汗の出る思いをした。残り2ヶ月間で120点以上上げなければならない状況に追い込まれたからだ。その後、英語の授業をあてにせずに、自分で勉強していこうと方針を切り替えた。まず、短期間でヒアリングの能力を向上させるのは難しいと考え、文法の勉強に力を入れるとともに、 読解ではパラグラフ・リーディングの手法を学ぶことにより、得点を上げることに努めた。この方法は、一つのパラグラフには一つの主題があり、それが最初の文章で表現されているので、各パラグラフの最初の文章を読んでいけば、どのような長文でも短時間に内容を把握できるという手法である。このような方法を取ることにより、7月には530点を取ることができ、何とか大学院への入学ができる状態にもって行くことができた。

異なる文化の狭間で

このように留学当初は、英語力を身につけることが最も重要な課題となっていが、それだけではなかった。米国で生活するためには、精神的な安定を確保することも大切であった。
私のホームステイ先は、外科医の家で2階建ての立派な家であったが、私にあてがわれたのはガレージの上にある6畳程度の薄暗い部屋で、天上が屋根の傾斜に伴って斜になっていた。食事はついていなかったので、学校の食堂で食べ、勉強は学校の図書館で行い、この部屋ではただ寝るだけであった。ホームステイといっても、よく広告にあるような、米国の家族と留学生がリビングルームで楽しげに交流するようなものでなく、家主が家賃収入を得るために、部屋を開放しているにすぎなかった。家族から離れ、単身で米国に来た私にとっては、ホームステイでの生活は返って孤独感を深める結果となった。

この家に住み始めたころは、ここの家族と話す機会がなく、なぜ誰も私に話しかけてくれないか不思議に思っていた。しかし、今から考えれば、ホストの家族にとって、私は日本から来た語学留学生である。まだ正規の大学院生ではなく、しかも会話も充分にできる状態ではなかったので、私に興味すら持たなかったことは理解できることである。むしろ、30歳に近い男性が単身で米国に来ていること自体に気味の悪さを感じたのではないだろうか。

それは、英語学校でも同様であった。もともと大学入学の準備のために英語教育を行う学校なので、学生の大半は高校を卒業したばかりの若者であった。クラスでは私が最年長であり、ひとまわりも歳が違う学生の間では、興味や関心が異なり、共通の話題を見つけるのが難しかった。さらに、南米から来た学生が多かったので文化的な違いがあり、馴染むことができず、クラスの中でも孤独を感じた。

授業においても、教師は、私にほかの学生と同様の質問や注意を与えたので、米国では一介の語学留学生でしかないことを改めて自覚させられた。日本であれば、大学院を修了し、その後数年間、研究所で修業した技術者であれば、研究者として自信をもって仕事を行える時期である。まさかこの歳になって大学入学前の学生のように扱われるとは予想もしていなかった。この時期は家族から離れた孤独感も大きかったが、ホームステイ先でも英語学校でもただの語学留学生としての扱いしか受けず、自分でその状態をすぐに受け入れることができなかったので、精神的にはかなりハードであった。
週末に町に出て美術館などを見学して気を紛らわそうと努力したが、精神的な安定を得るためにはこれといった手段はなかった。結局、米国においては自分の存在をまわりに認めてもらう以外に方法がないのではないかと思い至った。そのためには、まず大学院の入学許可を得ることが重要であった。それは、語学留学生という不安定な身分ではなく、大学院生という比較的信頼される立場を獲得できるからである。その意味において、数ヶ月間英語の勉強に取組み、短期間で入学許可に必要な英語力を身につけることができたのはよかった。もし、入学許可がおりなかったら、聴講生という身分となり、みじめな生活を送っていただろう。

こうして私は米国社会に対して危うげな第一歩を踏み出すことになった。

英語力獲得は容易でなかった

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年8月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その4 就職と研究所出向)

2020年5月1日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第4回は、企業への就職と日本原子力研究所への派遣です。

就職前に感じた不安

「会社では、私はどのように振舞えば良いのだろうか。」これが、私が会社に入る前に感じた不安であった。それは、今まで馴染んだ教育の場である学校を離れて、社会で経済活動を行う会社という場に、初めて身を移すことへの不安でもあった。しかし、入社後の研修会を受け、実際の職場での仕事が始まると、新しい知識や技術を覚えるのに忙しくなり、当初感じた不安は徐々に心の中から忘れ去られていった。だが、この記憶が再び呼び起こされることになった。

訪れたチャンス

会社に就職して数ヶ月経ったところで、担当部長から別室に来るように指示があった。新入社員が部長に呼ばれることはめったにないので、何事かと不安に思いつつも部屋をノックした。「君には、9月から日本原子力研究所の高崎研究所に行ってもらうことになった。当社は新しいプロセスに使用する隔膜の開発に着手するが、当社にはそのノウハウがないので、原研の協力を得て進めることになった。入社早々だが、外来研究員として原研で研究してほしい。」と部長から穏やかな口調で説明があった。さらに、「すでに別の人が派遣されることに決まっていたが、入社後の行動からみて君が適任と判断した。」とコメントがあった。それに対してとっさに「喜んで行かせていただきます。」と返事をして部屋を出た。

生まれて初めて転勤の辞令を受けた驚きもあり、説明の最後の部分まで充分に考えが及ばなかったが、実はそこに重要な意味が隠されていた。つまり、部長は入社後の私を原研に派遣する候補としてすでに評価を行っていたのである。社内研修を終えて数ヶ月しかたっていない新入社員に対して、このような評価が始まっているとは夢にも思わなかった。しかし、なぜ私が選ばれたのだろうか。

私が入社する前は、Nさんが派遣候補として決まっていた。Nさんは、大学院の修士課程を修了し、私より1年前に入社していた。専攻も私と同じで、外来研究員として充分やっていく能力があった。さらに、会社に勤めて1年経つので、新入社員の私よりも、会社の業務内容について理解していた。一方、私は前回述べたように在籍した大学院で、指導教官から研究者としての評価を得られず、博士課程への進学を断念したという経緯もあり、技術者として自信を失っていた時期であった。通常ならば、Nさんが原研に派遣されるのが順当であろう。

派遣されてしばらくたったときに、研究会議で部長と合う機会があり、私を選んだ理由を聞くことができたが、「派遣した人間を通して会社が評価されることになるので、会社の代表として相応しい人を選んだ。」とのことであった。入社後、私は大学院時代の専門にこだわることなく、とにかく与えられたテーマに対してどのように展開するか前向きに考える姿勢を取り続けた。その姿勢が、会社に評価されたのであろうか。いずれにせよ、私にとって這い上がりのきっかけをつかむことができたのは幸いであった。

原研に派遣される直前に社長に挨拶にいったが、そのとき社長から「当社はエンジニアリング会社であるけれども、新しいプロセスを開発するためには、プロセスの中心的な役割を演じる隔膜についても自社で製造できるようにしたい。君も研究所に行って隔膜の技術者として修業を積んできてもらいたい。」という言葉をかけてもらった。社長自ら私に期待をかけてくれたことは、その後、隔膜の技術者としてキャリアを築く上で大きな精神的な支えとなった。

派遣生活の始まり

9月から、原研の高崎研究所での研究生活が始まった。初めて見る研究所は、森の中に切り拓かれた敷地に研究棟が点在し、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。野球場やテニスコートなどもあり、恵まれた研究環境であった。このような研究所で修業をつめる機会が得られたことに、喜びを隠せなかった。

その日、これから所属する研究室へ行き、職員への挨拶を行って、今後行う研究テーマについての簡単な説明を受けた。私の研究は、放射線を使って新しい隔膜の合成であったが、外来研究員という立場で派遣されたので、研究を進める際には、職員に相談はするが基本的には自分自身で研究計画を立て、実験を行い成果を出さねばならない。このように外来研究員は、原研では独立した研究者として扱われる。原研に来てから早々に、会社の代表として研究を進めることの責任の重さを実感することになった。

また、会社にいたときと大きく異なる点は、月に一度帰社し報告を行う以外は原研で研究を行うため、会社組織としての束縛が非常に弱くなったことだ。一方、原研では、原研の職員ではないということで、原研の組織からは外れた存在であった。いわば、外来研究員という立場は、自分の所属する会社から離れ、原研でも組織外にあるという、いずれの組織の影響も受けにくい状態に置かれていた。このとき自らを“遊牧民”だと感じるようになった。

遊牧民であることの意味

遊牧民族であるトルコ人の諺に「故郷とは、生まれた所ではなく満足したところ」というのがある。農耕民族である日本人が一所懸命に自分の農地を守るのとは対比的であるが、原研に派遣されている私には、このような遊牧民族の生き方に共感を覚え始めていた。また「強いものが遊牧し、弱いものが耕す」という諺が示すように、実力主義をとらないと生きていけない遊牧民族から学ぶべきことが多くあると直感した。それは、遊牧民は組織の束縛からは自由であることの代償として、自分が生きていく糧を失った場合には、のたれ死にする危険性をも背負っているからである。

私自身にとって、このような遊牧民の状態に置かれたことが、自分のものの考え方の幅を広げる上で重要であった。もしNさんが原研に派遣され、私が会社で研究を続けていたとすれば、研究成果を出すために没頭し、大学院時代に芽生えつつあった個性について顧みる機会がなくなり、自分を組織に順応させ、いわゆる会社人間となっていたかもしれない。そして、数年経つと自分の会社を「うちの会社」と言うようになり、会社という組織の中に自分自身を埋没させていたであろう。逆に遊牧民の状態に置かれたことで、通常は会社人間なっていく時期に、 組織の束縛から解き放たれ、自分の個性に磨きをかけることができた。このように所属する組織と一歩離れて自分を見つめる目を育てることは、その組織において自分が置かれている位置を認識できるとともに、その組織以外のものの考え方に触れる機会が増えるので、自分自身のキャリアを考える上では非常によかった。

たとえば、今回の原研の派遣の目的は、あるプロセスに使う隔膜の開発を行うことであったが、原研において最先端の隔膜の合成手法について学ぶことができたし、研究所にいる種々の職員の研究手法を参考にして、自分の研究テーマを行う上で最も適した方法を編み出すこともできた。さらに、派遣元の会社の技術と原研の技術をいかに融合させられるかについて仲介役を行うことができた。このような経験を通して、隔膜の技術者としてキャリアを積むと同時に、開発者としての幅を広げることができたと思う。

ふれ合う個性

実は私に刺激を与えてくれたのは原研の職員だけではなかった。私のほかに約10名の外来研究員が他社から原研に派遣されており、外来研究員同士の交流も活発に行われていた。おそらく、原研の中で同じ遊牧民という立場であったので、互いに親近感を持ったのであろう。数か月に一度、夜に集まり、近況や仕事に関する話しをするだけであったが、すぐに打ち解け、会社人間としではなく個人として触れ合うことができた。

その“遊牧民”の中で特に親しかったのがFさんだった。私よりも歳が一つ上で年齢が近く、原研の独身寮に一緒に住んでいたことや、開発室の所属も同じであったことから、自然と接する時間が多くなった。そして、研究のことはもちろん、技術者としての生き方についてや、結婚などの私生活についても語り合える間柄となった。Fさんがもし同じ会社の人間であったら、社内の昇進や評価に関して利害が絡み、自分をさらけ出すことにリスクが伴うので、そこまで親しくなることはなかったと思う。 やはり、そのような利害が絡まない“遊牧民”であったことが、親交を深めたのだろう。

Fさんとは、それぞれの会社に戻ったあとも交流を続け、刺激を与えあった。 その中で一番大きかったのは、原研時代の研究成果をベースとして、互いにドクターの取得を目指したことだ。そして、互い無事目標を達成することになる。おそらく、原研で遊牧民としての機会が与えられなかったら、Fさんとの出会いもなく、人生の豊かさも今程は感じられなかったであろう。

原研に派遣されてから3年後、私は遊牧民としての生活を終え、束縛多き会社に復帰した。だが、原研時代に築きあげた遊牧民としてのメンタリティーは心の中に刻み込まれていた。その後も会社という組織から一歩離れた位置から自分を見つめる目を持ち続け、自分の個性を見失うことなく、組織と折り合いをつけながらキャリア形成を行う道を歩むことになった。

遊牧民としての技術者生活

出典:「現代化学」(東京化学同人)2005年7月号

百瀬隆さんのエンジニアキャリア全10回
その1 高専入学から大学編入まで
その2 大学院時代
その3 大学院卒業と就職
その4 就職と研究所出向
その5 米国留学への挑戦
その6 米国経営学大学院時代
その7 博士取得への挑戦
その8 転職
その9 管理系職種への転向
その10 まとめと振り返り