エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その10最終回 まとめ)

2020年5月7日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え最終回は、キャリア全体を通じて見えてきた風景です。40年に渡る技術者人生を振り返ると、期待と失望、挑戦と達成感の繰り返しであり、キャリアを重ねた結果としてより高い目標が見えてくるように思います。

キャリアから見えるもの

ここまで私は、自分の技術者キャリアについて書き綴ってきた。そのキャリアを振り返ると、私自身が多くの失敗によってどん底の状態に落ち込み、それから這い上がる努力を行い、ようやく安全圏に入ったと思った瞬間にまた谷底に落ち込み、あがいてきた姿が見えてくる。 そして、這い上がりのプロセスにおいて、 数多くの挑戦を行ってきたことがわかる。そんな挑戦に私を駆り立てたものは何だったのだろうか。

心の奥底にあるもの

「君の成績だと、将来とても国立大学には入れない。」私が中学2年生だったとき、進路指導の際に学級担任から出た言葉だった。一瞬それに反発を覚えたものの、きっぱりとしたその口調は、私には動かしがたいものに受け取れた。当時の私の成績は、学年で中の上ぐらいで、あまりよいとは言えなかった。学級担任の言葉は、それらのデータに基づいていたのだ。その後、高校入試に向けて勉強したが、 目指した公立高校は不合格となり、高専に行くことを決めた。このとき、私の心の中に「自分はやはり大学にいけない」とはっきり刻み込まれることになった。身近に大学を目指す先輩がいて刺激を受けたことは間違いない。しかし、それはあくまできっかけにすぎず、本当のドライビングフォースではなかった。当時はわからなかったが、中学校の学級担任の言葉への反発がその根底にあったようだ。「先生が言ったことは本当だったのか」という思いがあり、それが時を経るとともに、心の中でどんどんと膨れ上がっていたのだ。おそらく、自分の進む方向について、他人に断定的に方向づけされたことへの嫌悪感であったのかも知れない。

当時の私の成績からすれば、担任の判断は妥当であった。だが、中学生の私には、 学級担任の言葉は、評価をする人としてある程度支配力があり、それから開放されるのに、その後相当な努力と時間を要したことは事実である。学級担任の一言が、こんなにも私に影響力を与え続けたとは驚きであった。

私を突き動かしたもの

エンジニアリング会社に勤めてから、論文ドクターの取得に挑戦したことも、もとをたどれば師弟関係にゆきつく。大学院時代に、指導教官からあまりよい評価を受けられず、研究者として今後キャリアを積んでいくことに自信を失ってしまった。当初は、博士課程に進み高専の教官になることを目指していたが、それも断念してしまった。

指導教官から受けた指摘は、私の心に傷として深く残り、なかなか癒えることはなかった。そして会社に就職して研究者として自信がつき始めたころにやっと、「本当に研究者として劣っているのか。」という疑問が沸き起ってきた。それが論文ドクター取得へ私を突き動かしたのだ。大学院生であった私は、中学時代と異なり自分の個性を確立しつつあったのに、自分で思っている以上に指導教官の影響を強く受けていたのだ。おそらく、工学系の大学院では、師弟関係が徒弟関係に近く、指導教官の学生に対する影響力が特に強かったためであろう。

それでは、エンジニアリンング会社からD化学に籍を移し、知的財産の専門家を目指したときは、どうだったのだろうか。そこには、上司部下の関係が大きく影響していた。「君のような常識のない人間は当社の幹部として取り立てるわけにはいかない」というある上司の言葉がきっかけとなっていたと思う。

もともとは、私がその上司をドクターの公聴会に呼ばなかったが原因だった。そのため、そのまま在籍しても会社における技術者としての私の評価は上がらず、活躍の場が見つかるとも思えなかったことが、会社を移った動機であった。そして、D化学では単に技術者として業務を行うだけでは、活躍できる見通しが立たなかったので、リスクは承知の上で、経験のない知的財産の専門家を目指したのである。

以上のことから、師弟関係や上司部下の関係の中で、自分への評価が行われる場合、その評価に対して自分で納得できないときに「本当にそうなのか」という疑問が沸き起こってきたことがわかる。また、それがドライビングフォースとなって、新たな挑戦を行ってきたことも浮き彫りとなってきた。しかも、いずれも長い期間を経てようやく目的が達成されるような、大きな挑戦でもあった。

もう一つの要因

しかし、私を挑戦に駆り立てたものは、本当にそれだけだったのだろうか。ふと、日本原子力研究所に派遣されたときのことを思い出した。原研に出発する間際に、社長から「君には、研究所に行って隔膜の技術者として修業を積んできてもらいたい。」と声をかけてもらった。
実はこのテーマは、会社の存続をかけたプロセス開発に関係するものであった。しかも別の候補者が決まっていたにもかかわらず、入社して間もない私にその任を託されたこともあり、「自分は期待されている」という想いで心が満たされた。そして、その期待に応えるために、新規な隔膜の合成研究に専念した。新人である私が、派遣先で孤独な研究生活に耐えられたのも、自分への“特別な期待”を感じていたからだ。

そう言えば、もう一つ同じような経験がある。D化学に移ってからしばらくたったころ、ある上司から「突然ですが、訴訟対応のために米国にいってもらえないでしょうか。」と言われた。その当時、D化学は米国の会社から特許権侵害で訴えを起こされており、その対応が急務となっていた。D化学にとって初めての米国での訴訟対応であり、誰を訴訟担当として米国に派遣するかが会社にとって重要な課題となっていた。その上司は、私が知的財産に関心をもっていたこと思い出し、一研究員の私にそれを託したのであった。

訴訟対応には高度な専門知識と経験が要求されるので、研究員をいきなり訴訟担当に任命することはあり得ず、そのような決定をすること自体リスクがあった。それを承知の上で私を訴訟担当としたのは、将来のD化学にとって必要な人材となってほしいという“特別な期待”があったからだろう。私も未知の仕事で不安感に襲われたが、約3年間にわたり特許駐在員としてワシントンで業務を全うできたのも、そんな期待に応えたいという想いがあったからだ。

このように、私を挑戦に駆り立てたもう一つの要因は、「特別な期待に応えたい」というものであった。「それは本当か」に根ざす挑戦が、期待されていない状況での這い上がりであったこととは対象的である。這い上がりでは、いったん落ち込んだ状態から、リベンジするという重苦しい印象があるが、「特別な期待に応える」に根ざす挑戦では、今の状態からさらに高みに登るという晴れやかな印象がある。このして見ると、今まで私が行った挑戦の奥には、「特別な期待に応える」という陽の部分と、「それは本当か」という陰の部分の二面性が潜んでいて、それぞれの役割を演じていたことがわかる。

納得のいくキャリアとは

「自分がなにをやりたいのか」という問いを自らに発しながら、悩みつつ歩みを続けているうちに、ふと振り返るとわだちのように刻み込まれたもの、それが「キャリア」であった。そして、そのわだちには、今まで自分が行った数多くの挑戦の結果も刻み込まれていた。だが、それは決して成功例だけではなかった。たとえば、高専時代に描いた「高専の教官になる」という挑戦は実現せずに途中で挫折している。ドクターを取ったあとも現役の技術者として能力に陰りを感じ、知的財産の専門家となるべく方針の転換を行っている。現役の技術者として生き延びるという観点からすれば、やはり挫折している。

しかし、それらの失敗例を含め今まで私が行った挑戦は、自身のキャリアに彩りを添えている。もし、それらの挑戦がなければ私のキャリアは味気ないものだったに違いない。そういう意味で、これまでのキャリアに対して悔いはないし、これからも挑戦を続けて豊かなものにしたいと思っている。
本連載を通して、私が行った種々の挑戦を言わば「実験レポート」のように記述し、自分にとって心の痛みとなる部分もあえて紹介した。そうしないと「実験レポート」としての価値が失われると考えたからだ。この「実験レポート」が、これから技術者としてキャリアを形成される方々にとって役立つことを願って筆を置きたい。

技術者人生は縦走登山のようなもの

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その9 管理系職種への転向)

2020年5月6日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第9回は、技術専門職から知的財産という管理系職種への転向に関する経緯です。

転機の訪れ

「突然ですが、訴訟対応のために米国に行ってもらえないでしょうか。」ある日、研究開発担当のK役員から相談を受けた。当時の私は、エンジニアリング会社からD化学に移って約1年間半が経ち、技術者としてどのように生きるか迷っていた時期であった。K役員の言葉は柔らかであったが、私の心に訴えるものがあり、その場で思わず「わかりました。行かせていただきます。」と返答した。これが私にとって技術者としてのキャリアに節目をつけ、知的財産分野に移るきっかけとなった。

米国で吹き荒れる訴訟のあらし

D化学が米国で訴訟に巻き込まれたことには背景がある。1980年代半ば、米国は財政赤字と貿易赤字を抱えており、その原因の一つは、日本を含む外国企業が米国の特許を無視して安い製品を輸出していることにあるとされていた。そこで、米国は国策として、特許を含む知的財産権の強化・拡大を計った。その結果、特許を持つ人の権利が強くなり、莫大な損害賠償金を獲得することが可能となったのだ。そんな状況の中で、特許を使って他社を訴えて金を儲けるパテント・マフィアとよばれる人々が現れた。

D化学は、そんなパテント・マフィアの一つに狙われたのであった。そのパテント・マフィアは、他社が発明した特許を購入し、その特許で米国の裁判所に訴えを起こし、法外な損害賠償金を請求してきた。いったん、訴訟が始まれば、原告と被告の間で裁判に使われる証拠の開示が行われ、莫大な量の文書がやりとりされる。D化学としてもその対応のために、米国の法律事務所に社員を派遣する必要が生じた。そこで、その候補として私が選ばれたのだった。
選ばれるにも理由がある

はじめは、「とにかく挑戦してみたい」という気持ちにかられた。しかし、あとで冷静になって考えると「本当に訴訟対応ができるのだろうか」という不安感に襲われた。それは、米国で特許侵害訴訟を扱うには、少なくとも米国特許や裁判の知識が必要となることはいうまでもないが、それ以外に訴訟の対象となっている部品の技術についての理解が必要となる。さらに、米国弁護士とのコミュニケーションが重要となるからだ。

しかし、一技術者にすぎない私は、そのような能力や知識をとても身につけているとはいえなかった。特許については、自分の発明を特許出願するために必要な知識しかなく、訴訟に関しては全く経験がなかった。訴訟の対象となっている部品の技術知識についても、専門分野が異なるのでまったくわからなかった。そして米国留学の経験があるとはいえ、法律分野の米国弁護士と話しが通じるか不安があった。

そんな状況であるから、「私にはとてもできません。」と断りを入れるのがふつうだろう。ましてや訴訟対応は、会社の損失をいかに減らすかということがポイントとなる。そのようなクレーム処理を引き受けること自体がリスキーであり、なるべくなら避けるのが賢明であった。では、なぜ引き受けたのか?

今から考えると二つの理由があった。一つは、当時新聞記事を賑わしていた米国での特許訴訟に関心を持っていたことだ。ちょうどそのころ母校である高専から「私の理想とする技術者像」という演題で特別講演を頼まれ、「日米間の特許訴訟を扱える人材が求められております。こういった特殊な人材に希少価値がでてくるでしょう。」と講演を締めくくっていた。このときは、まさか自分がその道を歩むとは予想だにしなかったが、技術と法律がわかり、交渉ができる英語を身につけている人材の重要性については理解をしていた。

もう一つの理由は、38歳となっていた私は、技術者の資質として重要となる頭の柔軟性や創造性に衰えを感じ始め、今後技術者としてどのように生きていくか、その方向性を見失なっていた。現役の技術者を引退し、今までの技術者として身につけた能力を活かしつつ、技術以外の分野で新たな能力を築く必要性を感じ始めていた。訴訟対応の申し出は、そんな状況にあった私には非常に魅力的な提案となったのである。

ところで、K役員がなぜ私を訴訟担当の候補としたのか不思議であった。会社には知財部門があり、ほかに候補がいくらでもいたからだ。さらに、私が訴訟担当に向いているという判断をするには、D化学における私の実績は少なすぎた。しばらくたってからK役員にその理由を聞く機会があった。K役員は、私がD化学に中途入社する際に、役員面接に立会ったことから私の事を覚えていて、社内の会議で私が米国特許訴訟に関心をもっていることを話したことも覚えていたのだ。このことを通して、実現したいことは心に思っているだけでなく、そのことを言葉や行動で表すことにより、本当に実現化することを実体験できた。

法律事務所での生活の始まり

K役員から打診を受けてから約1ヶ月後、私はワシントンD.C.の近郊にある特許法律事務所の門の前にいた。そして不安感を胸に抱きながら、おもむろにノックした。これから3年間駐在することになる法律事務所との最初の出会いであった。この法律事務所には、弁護士と特許の申請を行う弁理士が約50名おり、そのほかの職員をいれて約120名の人がいた。私は、そんな法律事務所の一室を借りて、訴訟対応を行うことになった。つい1ヶ月前までは、実験器具に囲まれた実験室が仕事場であったのが、今度は弁護士に囲まれ、書類を扱うのが仕事となった。劇的な環境の変化といえる。当面の仕事は、東京本社から送られてくる証拠書類を分類し、原告側に送るための準備作業を行うことであった。そのために、朝一番に東京本社から送られてくる書類を読み、弁護士と打ち合わせを行い、必要な事項を確認したあと、夜にその結果を東京本社に報告することが日課となった。最初のころは弁護士との打ち合わせが苦痛であった。留学経験があったので、通常の日常会話ならばそんなに緊張することもなかったが、打ち合わせでは特許や訴訟に関する専門語が多く出てくるので、言われたことが理解できずに立ち往生することが多かったからだ。

弁護士からすれば基本的なことを何も知らない東洋からの来訪者に、いささか手を焼いているようであった。質問すると、「なぜそんな質問をするのかわからない」という表情をになったり、さらに細かく聞くと怒り出すこともあった。しかし、私としては、走りながら必要なことを学ぶ以外に手段はなかったのだ。 新しい分野を学ぶ方法としては、知ったかぶりせず、わからない点を聞いていく方法は決して間違いではなかったと思う。

米国弁理士試験への挑戦

弁護士の言ったことが理解できないときに、とりあえずは質問することでその場はしのげるが、それは根本的な解決策とはならない。やはり私自身が、米国特許法と裁判に関する知識を体系的に身につけないかぎり、弁護士とのコミュニケーションが計れないと思い始めた。そこで、まずは米国特許法を学ぶために、弁理士試験に挑戦することにした。

弁理士試験は年2回行われ、午前と午後それぞれ3時間づつ行われる。午前の部では米国特許法に関する多岐選択問題が出され、午後の部では発明に関する説明文を読み、それをベースとして特許の請求の範囲を実際に書くという試験が行われる。合格ラインは午前と午後の試験でそれぞれ70点以上とれば合格となる。このようにある基準を満たせば、誰にでも資格が与えられる。 最初は、試しに受けてみるという軽い気持ちで臨んだが、とても合格レベルには到達せず、やはり本腰を入れて勉強しないと受からないと感じ始めた。

そこで、試験の半年前から週末を利用して試験勉強を始めた。発明が生まれてから特許が登録になるまでのプロセスをまとめ、それに特許法の条文を関係づけ、特許法の全体像を理解するように努めた。また、発明を特許の請求の範囲として表すために、実際にそれを作り、弁護士に添削してもらう形で技術を修得していった。そんな努力が実りようやく3回目の挑戦で試験にパスすることができた。この試験勉強を通して、米国特許法を体系的に把握することができ、弁護士と議論しても気後れすることがなくなったのは大きな成果であった。

法律事務所に着任してから3年後、無事任務を終え日本に帰国することになった。その間、担当した訴訟は判決が出る前に和解し、問題を解決することができたが、新たな特許訴訟も起こり、その対応も行った。やはり、原告はパテント・マフィアであった。さらに、訴訟には至らなかったが、米国企業とある技術を巡ってどちらが先に発明したか議論となり、最終的には互いの特許を実施できるような契約を締結し、問題を解決することもできた。 このように、着任した当時は技術者としての技量しかなかったが、その後、特許法と裁判の知識を身につけ、訴訟担当としての経験を積むことができた。法律という私にとって馴染みのない分野を学ぶにあたって、弁護士と同じ釜の飯を食べながら、実際の事件を扱い、新たなキャリアを積むことができたのは幸いであった。

今後は、知的財産を扱う専門家として技術と法律の交差する領域で活動することになる。そして、現役の技術者として研究業務を行うことはもうないであろう。そう言う意味で、米国駐在は私のキャリアにとって大きな節目となった。

知財専門家に転向

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その8 転職)

2020年5月5日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第8回は、入社11年目に訪れた転職の経緯です。

辞意の表明

「一身上の都合により、会社をやめさせていただきます。」入社後11年が過ぎたある日、上司である研究所長に辞意を伝えた。「なぜ、会社をやめるのかね。」と、所長は苦渋に満ちた表情を浮かべながら言った。その後しばらく会話が続いたが、所長の「この件はしばらく考えさせていただく。」という言葉で締めくくられた。そのとき私は、つぎの就職先も決めており、すでに退職する意志を固めていた。

些細なきっかけ

私が会社をやめたいと思ったのは、ある些細な事件がきっかけとなっていた。私はその時35歳であったが、数ヶ月前に工学博士の学位を受けていた。約3年間独りっきりで、 週末を使って自宅で学位論文の準備を行い、ようやく獲得した論文博士であった。個人的には、学位を得たことで、技術者として大きな自信を得たし、さらに自分を成長させたいという望みも出てきた時期でもあった。
「だれのおかげでドクターを取れたと思ってるんや。」S役員から意外な言葉が発せられた。実はドクターを取る際、自分の論文を審査する先生を前にして公聴会が行われる。この公聴会に、研究を遂行する上でお世話になった方に参加してもらうことがあるが、S役員はこの公聴会に呼ばれなかった理由を問うために私を別室に呼んだのだった。

その言葉に対して、その場でごまかして返答すべきではないと思い、「確かに、ドクターを取ることを勧めていただきましたが、論文もすべて自宅で準備し、大学への審査依頼や費用の支払いも自分自身で行いました。」と応え、S役員が実際何をやってくれたのかを質問した。ほかにも対応の仕方があったかもしれないが、すでに手遅れであった。そのとき、S役員は言葉をなくし、怒りをこらえながらじっと私をにらみつけるだけだった。そして、「君のような常識のない人間は、当社の幹部として取り立てるわけにはいかない。」と私に告げたのだった。

会社をやめた本当の理由

会社をやめたいと思ったきっかけは、小さな事件であったが、今から振り返って見るともっと根深いものがあるように思える。当時の私は、研究開発の仕事が一段落つき、ちょうど仕事の節目を迎えていた。そして、研究者としてさらに仕事を続けるのか、研究マネージャーとして今後キャリアを築くのか、あるいは事業部門で活躍するのかという岐路にたっていた。

だが、エンジニアリング会社では、開発部門でも事業部門でも装置の設計が行える人が主要なポストについており、私のように素材開発を行う技術者は会社の中ではマイナーな存在であった。もちろん、私自身が設計をできるように新たな能力を身につけるという道もあったが、今まで身につけた技術を活かしたいという望みのほうが強かった。

また、自分では気がつかなかったが、私の内面にも変化が起こりつつあった。その変化は、意外なところからもたらされた。当時、私は大手のM化学と共同開発を行っていた。開発は順調に進み、目的とする装置が完成したのを記念して、M化学の技術者と懇親会が行われた。その席で、「百瀬さんは、今のままではだめですよ。他に進路を考えるべきです。」と、M化学の担当部長からそっと話しかけられたのだ。その部長は、私の能力を伸ばすには、エンジニアリング会社では限界があり、もっと別な会社で活躍の場を見つけるよう助言したかったのであろう。このような他の会社の人からの助言は、予想外に私の心を揺さぶった。それと時期を同じくして、母校の指導教官からは、「ドクターも取ったことやし、そろそろ次の場所を考えたらどうや。」という言葉をもらっていた。

こうして私自身、エンジニアリング会社では成長する場が狭くなり、新たな活躍の場を求め始めていたのだろう。今から考えると、S役員との事件は、私に会社を飛び出すきっかけを与えてくれたにすぎない。しかし、もしそうしたきっかけがなかったら、会社をやめることはなかったであろう。

退職を決心した私は次の就職先を見つけるために、人材バンクに登録をした。求職の条件を提示し、人材バンクからその条件に関心を示した会社の情報が送られてくるというシステムになっていた。そして約半年で6社の面接を受けた。最初の面接では、人事の担当が対応するのが普通であるが、D化学では人事とともに研究所長も同席しており、それだけでも意気込みが感じられた。最終的に、D化学に入社することになったが、まったく知り合いがいない会社でうまくやれるか、一抹の不安を感じた。

新たな会社での生活の始まり

翌年の4月より、現在も勤めているD化学に入社した。主任研究員として研究所の配属となり、研究テーマとしてはプラスチック関係を扱うことになった。以前の会社では、研究員は10名足らずであったが、新しく移った研究所では2百数十名の研究者がおり、大きな研究所と言える。

いよいよ新たな職場での研究生活が始まった。しかし、実際研究を始めようとすると具体的に何から手をつけてよいかわからず、途方にくれてしまった。隔膜の技術分野であれば一通りの知識を身につけているので、新しいテーマでも特に問題なく取り組めたであろう。しかし、プラスチック関係ということで、今までの知識があまり使えなかった。技術分野が少し異なるだけで、戸惑いを感じる自分に対して、驚きを感じた。

さらに、新しい会社でどのようにふるまってよいかわからず戸惑った。たとえば以前の会社ならば、技術的にわからない点は、誰に、どのように聞けばよいかすぐわかったが、それすらわからないのである。人に仕事を依頼する場合も、どのように頼んでよいかわからず、右往左往した。新入社員ならば、上司の指導を受けられるが、私自身が主任研究員として研究者を指導する立場にあるので、人に教わることに引け目を感じたのだ。
逆に考えれば、まわりにいる人たちも、私に対してどのように接したらよいかわからず、戸惑いを感じていたかもしれない。

そのときに、「会社をやめるのは簡単であるが、新しい会社に入ってからが大変」という意味がようやく理解することができた。研究テーマについては、関連する文献を読みながら比較的短期間で方向性を見い出せたが、会社の中でのふるまい方については、職場を観察しながら、少しづつ学んでいくしかなかったので、1年間ぐらい時間を要した。 日本の職場では、仕事の内容がマニュアル化されていないので、中途入社した人が不文律を学ぶ方法は、まわりを観察するという方法以外にないのだ。

会社を変わって感じたこと

会社を移って強く感じたことは、会社はそれぞれ独自の文化をもっているいうことであった。たとえば、社内の人の呼び方一つをとっても、D化学ではすべて「さん」づけで呼んでいた。単に同僚の間だけでなく、役員と従業員の間も例外ではない。以前の会社でも「さん」づけが行われていたが、それは部下が上司を呼ぶときに使われていたにすぎず、逆に上司が部下を呼ぶときには上下関係を明確にするために「君」が使われていた。新しい会社で、役員から「さん」づけで呼ばれた時には新鮮な感じを覚えた。単純なことだが、この「さん」づけには大変助けられた。もし「君」づけが行われていたなら、組織内の上下関係をすべて理解しなければならず、相当な労力をかける必要があっただろう。

もう一つ感じたことは、技術者としての能力の限界についてである。そのころ私は隔膜の技術者として、学会から特別講演を依頼される程度までになっていた。その実績からすれば、多少専門分野が異なっても研究が行えるであろうと高をくくっていた。しかし、実際異なる研究テーマに取組んでみると、それに必要な専門知識のなさを実感するとともに、これは相当力を入れなければ研究者として生き残れないのではないかと感じ始めた。

こんな想いとは裏腹に新しい知識がなかなか身につかなくなっていることも感じ始めていた。二十代後半に日本原子力研究所に派遣され、隔膜の合成技術を身につけたころは、特に意識しないでも、どんどん新しい知識が吸収できた。私も既に36歳を過ぎ、研究者にとって最も重要な資質である頭の柔軟性や創造性が徐々に衰えつつあったのだろう。

このように、D化学に移り、最初はその組織の文化に馴染むことや、新しいテーマにどう取組むか頭がいっぱいだった。しかし、多少精神的に余裕がでてきたときに「そもそも私は何のために会社を変わったのだろうか。本当に自分の成長につながるだろうか。」という疑問が湧いてきた。特に今後技術者としてどのように生きていったらよいか、その方向性を見失っていた時期だったので、しばらくは鬱屈した研究生活を送らざるを得なかった。そんな時期にある転機を迎えることになる。

転職で器を大きくする

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その7 博士取得への挑戦)

2020年5月4日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第7回は、論文博士取得の経緯です。

新たな転機

会社に入社して7年が経ち、業務も軌道に乗ってきたころ、ふと疑問をもった。「今のままでよいのか? 何かほかにすべきことはないのか。」いままで私の心の奥底で“しこり”となっていたものが、意識の中に上ってきたようだった。いったんこの問いが心にもち上がると、その答えを得ようと物思いに耽るようになった。そして最終的には、私がいままで試みた中で、最も困難で労力を費した「ドクター取得への挑戦」へと結びついていった。

心のわだかまり

その“しこり”とはいったいど何だったのか。それは、大学院の修士時代の苦い想い出に根ざす。当時の私は、指導教官からよい評価が得らず、研究能力が劣っていることを自覚したことから、博士課程に進むことを断念した。そして、将来研究者として仕事をしていくことにすら、自信を失った。これは私にとって明らかに挫折とよべるものであり、心の奥底に刻みこまれたのだった。
しかし、そんな“しこり”が、なぜ後になって頭をもたげたのであろうか。おそらく、その当時感じた挫折感を客観的に捉えることができる時期に達していたのだろう。そして「自分の研究能力が足りないという前提自体は本当に正しかったのか。」という素朴な疑問がわいてきたのだ。それに対して「そうではなかった。」と言い切るためには、何か客観的な裏づけが必要である。そこで考えたのがドクターの取得であった。しかし、31歳の私は、仕事も忙しく、とても大学院に通う時間的な余裕はなかった。そこで、大学院に通わずにドクターを取る、“論文ドクター”に挑戦することにした。

論文ドクターへの挑戦

いまでは一般的ではないが、少し前までは、会社に勤めながら学術誌に論文を掲載し、それをもとに学位論文をまとめ、大学で審査してもらってドクターを取る方法があった。そのためには、まず自分の究成果を学術誌に論文掲載することが重要となる。大学によって異なるが、論文ドクターの場合、博士課程で求められるよりも多くの学術論文が必要とされる。これに加えて指導教官の指導を受けられないため、この方法でドクターを取ることは至難の技といえた。しかも私の場合、いままで学術雑誌に掲載された論文は一つもなく、まったく一からの出発となった。

そこで、まず日本原子力研究所に外来研究員として派遣されていた時代の研究成果を使って最初の学術論文を作成することにした。無名の研究者であった私は、そのことがハンディーとならない米国の学術雑誌に投稿することにした。 最初は、論文のまとめ方すらわからなかったので、関連する論文を集めてきて、論文の構成、データのまとめ方や考察の仕方を学び取り、試行錯誤しながら論文にまとめていった。特に相談にのってもらえる人もまわりにいなかったため、あるときは学生、あるときは先生という役割を演じながら論文を作成していった。このような形で進めたので、最初の論文の原稿を仕上げるのに8ヶ月間もかかってしまった。

だが、これですぐに論文が掲載されるわけではない。論文の内容やレベルがその雑誌に合わない場合には、編集者から「この原稿は掲載する意志がない。」との返事がある。私の初めての論文は、幸いにも受理された。ところがしばらくして、二人の論文査読者からコメントが送られてきた。その内の一人から「この研究成果は学術上あまり意味がない。」と厳しい意見をもらったときには、「この先どうなるのだろう。」と不安感を抱いたものだ。しかし、研究の意義をアピールするための論拠をそろえ、査読者に粘り強く説得を行った。そんな努力が実り、最初の学術論文はなんとか雑誌に掲載されたが、論文作成に着手してから約2年が経っていた。

最初の学術論文で自問自答をくり返したおかげで、論文の構成や表現方法をつかんだ私は、その後、 順調に学術論文の作成を進めていった。そして、論文作成に着手してから3年間で目標とした7報の学術論文を米国の学術誌に掲載することができた。もし、最初の学術論文の作成に失敗していたら、それがつまずきとなって、論文ドクターを取ることは無理だったろう。このようにドクターを取る場合、最初の学術論文をいかに仕上げるかが重要となる。

もう一つのハードル

7報の学術論文をそろえた私の前につぎのハードルが迫ってきた。公表した学術論文をまとめてドクター論文を作成し、大学で審査を受けなければならないのだ。ここで重要となることは、どこの大学にドクタ−論文の審査を依頼するかである。通常、まったくつながりのない大学と比べ出身大学のほうが有利と言える。しかし、私は出身大学に依頼することにためらいがあった。それは、大学院時代に指導教官と価値観の違いに根ざす対立があり、口論が絶えなかったからだ。しかし、前述した“しこり”を払拭するためには、この指導教官との対話を避けることはできないと考え、まず指導教官に相談することを決意した。

「これやったら何とかドクターとれるやろ。」これが最初に指導教官から出た言葉であった。修士時代には厳しい評価しか得られなかったので、今回も「これではぜんぜんあかん。」と言われるのではないかと不安に思っていたが、この一言で大いに勇気づけられた。しかも、その後の大学における論文審査を行う主査と副査を決めるなどの段取りを整えてもらい、非常に助かった。いまでも指導教官とは価値観は異なると思うが、論文ドクターの取得に関してはメンター(助言者)としてなくてはならない存在であった。もし、出身大学ではなく、ほかの大学に論文審査を依頼していたら、ドクター取得は難しかったでかもしれない。それは副査の先生の「ぎりぎりで審査にパスした。」という言葉から推察がつく。

成功に結びつけるための工夫

今から思うとよくドクターが取れたものだとつくづく思う。実は、論文をまとめる以外にもいろいろな工夫が必要だった。たとえば、ドクター論文のドラフトが完成するまで、論文ドクターの件は会社に報告せず、自称“ヤミプロジェクト”として進めた。 会社にとって前例がないことなので、いきなり「ドクターを取らせて下さい。」と言ってもなかなか理解してもらえないと思ったからだ。 結局、「そこまで準備をしているならば取ったらどうか。」ということになり、無事許可を得た。それ以外にも、働きながらドクターを取るゆえの工夫が必要であった。

私の場合、平日は会社で業務を行っているので論文を纏める時間はない。そこで、週末に自宅で論文をまとめなければならなかった。最初のころは週末になると「論文を纏めよう。」と意気込んでいたが、実際にはほとんど作業が進まなかった。そんな状態がしばらく続き、しだいに焦りを感じ始め、作業が進まない原因について考えを巡らすことになった。

そのころの仕事場は、研究室ではなく製造現場に近いところであった。一方、論文をまとめる作業では、反応機構など分子レベルの議論等を行うので、現場にいる時と違い、学術的な思考が必要となる。そのため、会社で業務を行うときと、自宅で論文を書くときの頭の使い方が異なり、その切り替えがうまくいっていないのではと思い至った。つまり平日業務を行うための思考には慣性が強く働いており、その慣性ゆえに週末に別の作業、得に思考パターンの異なることを行おうとすると、頭の切り替えがしにくく、やる気が起こらないと考えた。

そこで、平日は会社の業務に専念し、なるべく週末に会社の業務をもち込まないようにした。そして論文をまとめる作業の前には、日常業務の思考の慣性を断ち切るための工夫をすることにした。具体的には土曜日の午前中は家の周辺を散策し、業務のことを忘れる努力をした。また、午後から論文作成を始めるときには、いきなり執筆にとりかかるのではなく、先週纏まとめた部分を読み返すなどの単純作業から入り、頭が馴染んできたところで徐々に論文を書ける状態へともっていった。このように工夫しても週末に論文を書くために6時間程度を捻出できればよいほうであった。

さらに問題なのは、自宅の環境であった。そのころは、3DKのアパートに住んでいたが、結婚し子供も一人いて、自分の勉強場所をいかに確保するかが重要となった。まず、小さな机とワープロをそろえ、部屋の一角に勉強できる空間をつくり、本箱には必要な論文や図書を集め、こじんまりとした研究室を作った。そして、約3年間、週末を論文作成のために使い、家族と外出する機会も自然と少なくなった。ドクター論文作成においては、このような家族の協力を得ることも不可欠であった。

このように30代前半という、精神的にも体力的にも充実した時代に、論文ドクター取得という、キャリア形成上大きな挑戦が行えたのは幸いであった。この挑戦があと5年遅れていれば、ドクターの取得は実現しなかったであろう。そして、「研究者として劣っている。」というコンプレックスを心に抱きながら、技術者としての生活を送っていたであろう。ドクター取得を成し遂げた後、しばらくは「何もしたくない」という状態が続いたが、目標を達成したという充実感に助けられ、しばらくすると心の内面につぎへの飛躍のための夢が膨らみ始めた。

業務の合間を縫って研究論文作成に励む

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その6 米国経営学大学院時代)

2020年5月3日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第6回は、米国経営学大学院時代の奮闘記です。

異なる学問分野への不安

「技術者である私が、経営学など理解できるのだろうか?」米国の大学院入学の前に、私は不安を感じ始めた。今まで、経営学を学んだこともないし、基礎知識もない。しかも言葉の壁がある。 数ヶ月間語学学校で学んだが、まだリスニングは充分でなかった。たとえそんな状態であっても大学院での生活が始まる。いったいどうすればよいのだろうか。

ビジネスプログラム始まる

5月末、ボストンでの語学研修を終えた私は、 イリノイ州へと向かった。その途中の風景は、陸上で地平線が見えるくらいに真平であり、そこにコーン畑が延々と続いていた。夕日が沈むときには一斉にそのコーン畑が照り輝き、まさに大地という印象を受けた。私が入学するイリノイ州立大学は、そんなコーン畑に囲まれた学園都市の中にあった。

私が受けたビジネスプログラムは、日本の経済団体とイリノイ州立大学が協力して開設したものであった。大学院で1年間経営学の授業を受けて単位を取得するとともに、特別授業や会社訪問などを通じて実際のビジネスの現場にも触れられるようにプログラムが組まれていた。修士の学位は取得できないが、プログラムの修了証が発行される。

このプログラムには、日本企業からは14名の参加者があった。大半は企画、経理、営業の出身者で、技術者は私を含め、わずか2名であった。参加者の一人は、このプログラムを受けるために、社内公募に応募し、約200名の応募者の中から1名だけ選ばれたとのことであった。その選考にあたって、語学力とともに経営学を学ぶ基礎があるかが判断されたことはいうまでもない。技術者の参加者が少なかったのは、おそらく最初から選考の対象外とされたのではなく、文系出身者との競争において勝てなかったためであろう。

もし私がその会社の社員であったとしたら、語学力が劣り、経営学の基礎ができていないので、とても留学生として選ばれることはなかったであろう。私が所属した会社は、全社員で50名程度であったので、ほとんど競争がない状態で選ばれた。このように、技術者として経営学を学ぶ機会が与えられたことは、非常に恵まれていたといえる。しかし、そのことに気がついたのは、留学を終えて一段落ついてからであった。留学当初は、馴染みのない経営学をいかにに学ぶか、それで頭が一杯だったからである。

授業での悪戦苦闘

8月から大学院での講義が始まった。私の場合、受講する科目を多くすると消化不良となる可能性があったので、会計学、マーケティング、ビジネスコミュニケーションに絞った。米国の大学では、授業の設計がよくなされており、ボリュームもある。そのため、学生も真剣にならないとよい評価が得るのはもちろん、単位を取ることも難しかった。私が最も苦手とした会計学ではどうだったのだろうか。

授業の初日は、教授からシラバスを用いて授業の進め方について説明があった。シラバスというのは、授業の日程、おのおの授業で取扱う課題、予習の範囲、議論するケースの範囲などが一覧表になったものである。シラバスを見れば、その授業のコンセプトや授業方法がわかるので、教授にとっても学生にとっても非常に重要なツールとなる。日本の大学でもシラバスはあったが、このように綿密なものを見るのは初めてであった。

2回目では、会社の財産状態をするためのバランスシート(貸借対照表)に関する授業が行われた。教科書の予習の範囲は約50ページであり、状況設定と設問からなるケースについての準備を行う必要があった。私は、もともと会計学の知識を全く持っていなかったので、まずは教科書をじっくり読んでその内容を把握することに努めた。幸い、教科書を順に読んでゆけば、会計学の知識がなくても理解できた。それは、米国では経営学の修士課程は専門職大学院として位置づけられており、技術系を含め学部の専攻が異なる種々の学生でも理解できるように教科書が書かれてあるからである。ケーススタディーの準備には時間がかかるが、教科書で得た知識を応用すればなんとか準備できた。この授業の準備だけでも5時間ぐらいかけた。

問題は実際の授業であった。教授が説明する部分は、事前に教科書を読んでいけばおおよそ理解ができた。しかしケースの議論に移ると、教授と学生が活発に議論するので話しの筋が読めず、ほとんど理解ができなかった。 かろうじて教授が黒板に書いたことから内容を類推するしかなかった。こういう調子で半年間授業を受け続け、約900ページの会計学の教科書を読み、ケーススタディーも一通りこなし、2回の試験を受けて、ようやく単位を取ることができた。今では、その内容について詳細は覚えていないが、ぼろぼろになったその教科書から、当時いかに悪戦苦闘したかをうかがい知ることができる。

米国の学生はなぜよく勉強するのか?

授業にもなれ精神的に余裕がでてきたころ、ようやく周囲の様子が見えるようになってきた。まず感じたことは、各授業でいつもある種の緊張感がただよっていたことだ。日本の授業風景と大きく異なり、寝ている学生は一人もいない。米国の学生は時間を惜しまず予習を行い、ケ−スに対して自分なりの意見を準備している。それは、通常図書館が夜10時ごろまで開いており、学生がそこで勉強するために学習机を奪い合っている状況からもうかがい知れる。そこまで準備して授業に臨むので、授業中寝ることは到底考えられないことである。

一方、教授は講義とともに、ケーススタディーを通して学生との対話の機会を授業に盛込んでいた。教授は学生が考えた解決策に対して、複数の視点から物事を見るように促した。それに対して別の学生が違った観点からの解決策を投げかけ、またそれに対して教授がコメントするということで授業が進められる。その過程で、学生は物事の本質をいかにつかむかについてその方法を体得する。このように授業では対話が重要な役割を果していた。ときどきジョークが飛び交い一見和やかに見えるのであるが、実は教授と学生の真剣勝負が行われており、それが緊張感の源となっていた。

「それにしても米国の学生はなぜよく勉強するのだろう。」そんなことを感じていたある日、同じクラスの米国人のJさんと雑談する機会があった。彼はもともとほかの大学で化学を専攻し、卒業後化学会社に勤めたという経験を持っていた。米国では、学部卒であると、正規の研究員ではなく、実験補助員として扱われるのが普通である。彼もその例外ではなく、その会社では分析技術者として働いていた。しかし、数年働いてみて、開発マネージャーとして働きたいと思うようになり、その会社をやめて大学院に入ったとのことであった。おそらく彼は、経営学修士号を得たのち、希望するポジションを得るべく働きかけをするのであろう。

実は、クラスではJさんのようにすでに働いた経験のある学生が大半であった。働きながら大学院にいくための資金を貯え、そしてキャリア・アップを図るために、大学院に学びに来ているのである。そのような学生にとっては、将来専門家として働くために、必要な能力や知識を得ようと身銭を払って授業を受けているのである。そんな背景を知ると、米国の学生がなぜ真剣に勉強するかが少しずつ理解できるようになった。今まで、私にはそのような感覚はなかったので、目からウロコが落ちる思いであった。

経営学から何を学んだのか?

技術者である私がこのプログラムを通して得たものは何であろうか。留学する前は、経営学がどのようなものかまったくわからなかった。さらに、「技術者がなぜ経営学を学ばないといけないのか?」という疑問が心の中にあった。むしろ、留学であれば技術系の大学で研究する機会を望んでいた。そんな私が、このプロブラムを受けてよかったと感じたことは、会社を一つの生き物(組織体)とみて、その経営状態や会社を発展させるためにどのような方策を取るのか考える、そういった視点を得たことにある。

留学したとき私は30歳であり、 会社に勤めて6年たっていた。それまで自分の研究テーマをどのように展開するかについては考えてきたが、会社にとってそのテーマがどのような位置づけにあり、どのような意味をもつかを考えてみたことはなかった。 研究も会社の活動の一つである以上、当然考える必要があるが、どうもその視点が欠落していたのである。そういったことを改めて自覚させられた。

さらに、米国において専門家がどのようにキャリア・アップを行うのかを身近にみることができた。専門家として、自分の望むポジションを得て、納得のいく仕事をしていくためには、それに必要な能力や知識を獲得し続けなければならないのである。しかし、一方で日本ではそんなことができるのだろうかとの疑問も湧いてきた。その当時は今ほど社会人大学院が充実しておらず、働きながら学校で学ぶのは難しい状況であったからである。

留学のために日本を出発してから1年数数ヶ月後、家族とともに日本に帰国することになった。大学という自由な環境から束縛の多い日本社会への復帰である。東京に向かう飛行機の中で、私自身、専門家として今後どのように生きて行くのか思いを馳せながら帰国の途についた。

大学院での会話についていくのは大変だった

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その5 米国留学への挑戦)

2020年5月2日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第5回は、米国経営大学院への留学前半です。

未知の経験への不安

「日本の社会を離れ、米国で一人でうまくやっていけるだろうか?」出発の日が近づくにつれて、このような不安が心の中に芽生え、そして膨らんできた。文化が異なる外国で暮らすことは私にとって未知の経験である。それゆえに、今までの自分が経験し学んだことが通用しないことに遭遇するであろう。そのようなとき、どう対処すればよいのであろうか。

新たなチャンス

日本原子力研究所での外来研究員としての役割を終え、会社に復帰してから1年が過ぎたころ、突然担当部長から、「今度君には米国の大学で経営に関する勉強をしてもらうことになったので、現在の業務を引き継げるようにして欲しい。」と告げられた。派遣先から戻り、仕事は順調に進んでいた。これから私を中心に、隔膜の開発を本格的に進めようという矢先であっただけに、この部長の言葉は意外であった。部長としても、開発が順調に進み出した時期でもあり、私を海外に出すことに反対のようだった。しかし、社長の「留学というのは、行ける時に行かないと機会を失する。」という方針に従い、私の米国留学が決定された。

この留学は、会社から毎年社員を1名米国に派遣し、語学研修を受けたのちに米国の大学院に1年間在籍させ、経営学の単位を取得させるものであった。私の場合、もしこの時に開発を優先し、留学の時期を遅らせる決定がなされたならば、二度と米国留学は実現しなかったであろう。 なぜなら、私の派遣を最後に、この留学制度は見直されることになったからだ。最後の留学生として、かろうじてチャンスが巡ってきたのである。

サバイバルゲームの始まり

29歳の3月に、私は成田空港から米国に向かって出発した。まず、ホノルルで入国審査を済ませ、 サンフランシスコ経由でニューヨークへ行き、最終目的地であるボストンへと向かった。乗り継いた関係もあり、ボストンの空港に着いたときには、 成田を出発してからまるまる1日がたっていた。充分な睡眠がとれなかったこともあり、体がだるく休息をとりたい気分であったが、その足でボストンの郊外にある英語学校へと向かった。

学校に到着後、クラス分けのための試験が行われた。英語の能力によって4つのクラスに分かれており、私は下から二つ目のクラスに入ることになった。試験が終わってから、ホームステイ先の案内があった。事務員から何件か候補の家が示され、この中から自分の気に入った所を決めるようにと説明があった。だが、これらのホームステイ先は学校の周辺にあるとはいえ、とても歩いて回れる距離ではなかった。私は一瞬どうしてよいかわからず、事務員の顔を見たが、その固い表情からは「自分でなんとかしなさい。」としか読み取れなかった。その日に決めないと寝る場所が確保できないので、非常にあせりを感じた。このように、米国での1日目は、まさにサバイバルゲームの始まりであった。

そのとき、たまたま事務員とのやりとりを聞いていた日本人のOさんが声をかけてくれ、車で案内してくれたので、なんとかホームステイ先を見つけることができた。Oさんは、数カ月前からこの英語学校で勉強していた人だった。もしこの人がいなかったらどうなっていたのだろうか・・

英語との格闘

この英語学校に通うことになったのは、 大学院の入学許可を得るのに必要な語学力を養うためであった。英語の能力を調べるために行われる試験(TOEFL試験)で520点以上が入学には求められていたが、私はそれをクリアーしてなかった。日本出発前に受けた結果では430点だったので、約100点上げる必要があった。そして7月末までに、クリアーできないと、大学院の入学許可がおりず、米国に来たものの、留学の目的を達することなく会社に戻ることになるので、私にとって大きなプレッシャーとなっていた。この留学には、会社からの期待とともに、家族の期待もかかっていた。もし、大学院に入学できなければ聴講生として滞在することになり、その場合には会社の規定により、家族を米国に呼ぶことができず、ずっと単身で生活しなければならなかったからだ。

このような状況で勉強していたにもかかわらず、私はなかなか英語に自信を持てなかった。それは、 高専時代あまり英語を勉強しなかったことと、普通の高校生のように大学受験というハードルがなかったため、集中的に英語を勉強する機会がなかったためである。高専では、専門分野に関する文献が読める能力があれば特に不自由することがなかった。中学校程度の文法と専門分野における語彙があれば充分で、それ以上の勉強をする必要性を感じなかった。しかし米国の大学院は、中学校程度の英語で通用するはずはなく、授業の事前準備のためのリーディングに必要な能力、講義を理解し議論する能力、ケーススタディーを報告書としてまとめる能力など、ハイレベルな英語の能力が要求される。520点というのは、それらの能力を最低限身につけているというレベルであり、実際にはそれ以上の能力がないと授業についていくことができない。

最初のころは、TOEFLの点数を100点上げることに、プレッシャーを感じていたものの、英語学校で勉強すればなんとかなるであとうと考えていた。しかし、5月に受けた試験では400点と逆に下がってしまい、このときはさすがに冷や汗の出る思いをした。残り2ヶ月間で120点以上上げなければならない状況に追い込まれたからだ。その後、英語の授業をあてにせずに、自分で勉強していこうと方針を切り替えた。まず、短期間でヒアリングの能力を向上させるのは難しいと考え、文法の勉強に力を入れるとともに、 読解ではパラグラフ・リーディングの手法を学ぶことにより、得点を上げることに努めた。この方法は、一つのパラグラフには一つの主題があり、それが最初の文章で表現されているので、各パラグラフの最初の文章を読んでいけば、どのような長文でも短時間に内容を把握できるという手法である。このような方法を取ることにより、7月には530点を取ることができ、何とか大学院への入学ができる状態にもって行くことができた。

異なる文化の狭間で

このように留学当初は、英語力を身につけることが最も重要な課題となっていが、それだけではなかった。米国で生活するためには、精神的な安定を確保することも大切であった。
私のホームステイ先は、外科医の家で2階建ての立派な家であったが、私にあてがわれたのはガレージの上にある6畳程度の薄暗い部屋で、天上が屋根の傾斜に伴って斜になっていた。食事はついていなかったので、学校の食堂で食べ、勉強は学校の図書館で行い、この部屋ではただ寝るだけであった。ホームステイといっても、よく広告にあるような、米国の家族と留学生がリビングルームで楽しげに交流するようなものでなく、家主が家賃収入を得るために、部屋を開放しているにすぎなかった。家族から離れ、単身で米国に来た私にとっては、ホームステイでの生活は返って孤独感を深める結果となった。

この家に住み始めたころは、ここの家族と話す機会がなく、なぜ誰も私に話しかけてくれないか不思議に思っていた。しかし、今から考えれば、ホストの家族にとって、私は日本から来た語学留学生である。まだ正規の大学院生ではなく、しかも会話も充分にできる状態ではなかったので、私に興味すら持たなかったことは理解できることである。むしろ、30歳に近い男性が単身で米国に来ていること自体に気味の悪さを感じたのではないだろうか。

それは、英語学校でも同様であった。もともと大学入学の準備のために英語教育を行う学校なので、学生の大半は高校を卒業したばかりの若者であった。クラスでは私が最年長であり、ひとまわりも歳が違う学生の間では、興味や関心が異なり、共通の話題を見つけるのが難しかった。さらに、南米から来た学生が多かったので文化的な違いがあり、馴染むことができず、クラスの中でも孤独を感じた。

授業においても、教師は、私にほかの学生と同様の質問や注意を与えたので、米国では一介の語学留学生でしかないことを改めて自覚させられた。日本であれば、大学院を修了し、その後数年間、研究所で修業した技術者であれば、研究者として自信をもって仕事を行える時期である。まさかこの歳になって大学入学前の学生のように扱われるとは予想もしていなかった。この時期は家族から離れた孤独感も大きかったが、ホームステイ先でも英語学校でもただの語学留学生としての扱いしか受けず、自分でその状態をすぐに受け入れることができなかったので、精神的にはかなりハードであった。
週末に町に出て美術館などを見学して気を紛らわそうと努力したが、精神的な安定を得るためにはこれといった手段はなかった。結局、米国においては自分の存在をまわりに認めてもらう以外に方法がないのではないかと思い至った。そのためには、まず大学院の入学許可を得ることが重要であった。それは、語学留学生という不安定な身分ではなく、大学院生という比較的信頼される立場を獲得できるからである。その意味において、数ヶ月間英語の勉強に取組み、短期間で入学許可に必要な英語力を身につけることができたのはよかった。もし、入学許可がおりなかったら、聴講生という身分となり、みじめな生活を送っていただろう。

こうして私は米国社会に対して危うげな第一歩を踏み出すことになった。

英語力獲得は容易でなかった

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その4 就職と研究所出向)

2020年5月1日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第4回は、企業への就職と日本原子力研究所への派遣です。

就職前に感じた不安

「会社では、私はどのように振舞えば良いのだろうか。」これが、私が会社に入る前に感じた不安であった。それは、今まで馴染んだ教育の場である学校を離れて、社会で経済活動を行う会社という場に、初めて身を移すことへの不安でもあった。しかし、入社後の研修会を受け、実際の職場での仕事が始まると、新しい知識や技術を覚えるのに忙しくなり、当初感じた不安は徐々に心の中から忘れ去られていった。だが、この記憶が再び呼び起こされることになった。

訪れたチャンス

会社に就職して数ヶ月経ったところで、担当部長から別室に来るように指示があった。新入社員が部長に呼ばれることはめったにないので、何事かと不安に思いつつも部屋をノックした。「君には、9月から日本原子力研究所の高崎研究所に行ってもらうことになった。当社は新しいプロセスに使用する隔膜の開発に着手するが、当社にはそのノウハウがないので、原研の協力を得て進めることになった。入社早々だが、外来研究員として原研で研究してほしい。」と部長から穏やかな口調で説明があった。さらに、「すでに別の人が派遣されることに決まっていたが、入社後の行動からみて君が適任と判断した。」とコメントがあった。それに対してとっさに「喜んで行かせていただきます。」と返事をして部屋を出た。

生まれて初めて転勤の辞令を受けた驚きもあり、説明の最後の部分まで充分に考えが及ばなかったが、実はそこに重要な意味が隠されていた。つまり、部長は入社後の私を原研に派遣する候補としてすでに評価を行っていたのである。社内研修を終えて数ヶ月しかたっていない新入社員に対して、このような評価が始まっているとは夢にも思わなかった。しかし、なぜ私が選ばれたのだろうか。

私が入社する前は、Nさんが派遣候補として決まっていた。Nさんは、大学院の修士課程を修了し、私より1年前に入社していた。専攻も私と同じで、外来研究員として充分やっていく能力があった。さらに、会社に勤めて1年経つので、新入社員の私よりも、会社の業務内容について理解していた。一方、私は前回述べたように在籍した大学院で、指導教官から研究者としての評価を得られず、博士課程への進学を断念したという経緯もあり、技術者として自信を失っていた時期であった。通常ならば、Nさんが原研に派遣されるのが順当であろう。

派遣されてしばらくたったときに、研究会議で部長と合う機会があり、私を選んだ理由を聞くことができたが、「派遣した人間を通して会社が評価されることになるので、会社の代表として相応しい人を選んだ。」とのことであった。入社後、私は大学院時代の専門にこだわることなく、とにかく与えられたテーマに対してどのように展開するか前向きに考える姿勢を取り続けた。その姿勢が、会社に評価されたのであろうか。いずれにせよ、私にとって這い上がりのきっかけをつかむことができたのは幸いであった。

原研に派遣される直前に社長に挨拶にいったが、そのとき社長から「当社はエンジニアリング会社であるけれども、新しいプロセスを開発するためには、プロセスの中心的な役割を演じる隔膜についても自社で製造できるようにしたい。君も研究所に行って隔膜の技術者として修業を積んできてもらいたい。」という言葉をかけてもらった。社長自ら私に期待をかけてくれたことは、その後、隔膜の技術者としてキャリアを築く上で大きな精神的な支えとなった。

派遣生活の始まり

9月から、原研の高崎研究所での研究生活が始まった。初めて見る研究所は、森の中に切り拓かれた敷地に研究棟が点在し、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。野球場やテニスコートなどもあり、恵まれた研究環境であった。このような研究所で修業をつめる機会が得られたことに、喜びを隠せなかった。

その日、これから所属する研究室へ行き、職員への挨拶を行って、今後行う研究テーマについての簡単な説明を受けた。私の研究は、放射線を使って新しい隔膜の合成であったが、外来研究員という立場で派遣されたので、研究を進める際には、職員に相談はするが基本的には自分自身で研究計画を立て、実験を行い成果を出さねばならない。このように外来研究員は、原研では独立した研究者として扱われる。原研に来てから早々に、会社の代表として研究を進めることの責任の重さを実感することになった。

また、会社にいたときと大きく異なる点は、月に一度帰社し報告を行う以外は原研で研究を行うため、会社組織としての束縛が非常に弱くなったことだ。一方、原研では、原研の職員ではないということで、原研の組織からは外れた存在であった。いわば、外来研究員という立場は、自分の所属する会社から離れ、原研でも組織外にあるという、いずれの組織の影響も受けにくい状態に置かれていた。このとき自らを“遊牧民”だと感じるようになった。

遊牧民であることの意味

遊牧民族であるトルコ人の諺に「故郷とは、生まれた所ではなく満足したところ」というのがある。農耕民族である日本人が一所懸命に自分の農地を守るのとは対比的であるが、原研に派遣されている私には、このような遊牧民族の生き方に共感を覚え始めていた。また「強いものが遊牧し、弱いものが耕す」という諺が示すように、実力主義をとらないと生きていけない遊牧民族から学ぶべきことが多くあると直感した。それは、遊牧民は組織の束縛からは自由であることの代償として、自分が生きていく糧を失った場合には、のたれ死にする危険性をも背負っているからである。

私自身にとって、このような遊牧民の状態に置かれたことが、自分のものの考え方の幅を広げる上で重要であった。もしNさんが原研に派遣され、私が会社で研究を続けていたとすれば、研究成果を出すために没頭し、大学院時代に芽生えつつあった個性について顧みる機会がなくなり、自分を組織に順応させ、いわゆる会社人間となっていたかもしれない。そして、数年経つと自分の会社を「うちの会社」と言うようになり、会社という組織の中に自分自身を埋没させていたであろう。逆に遊牧民の状態に置かれたことで、通常は会社人間なっていく時期に、 組織の束縛から解き放たれ、自分の個性に磨きをかけることができた。このように所属する組織と一歩離れて自分を見つめる目を育てることは、その組織において自分が置かれている位置を認識できるとともに、その組織以外のものの考え方に触れる機会が増えるので、自分自身のキャリアを考える上では非常によかった。

たとえば、今回の原研の派遣の目的は、あるプロセスに使う隔膜の開発を行うことであったが、原研において最先端の隔膜の合成手法について学ぶことができたし、研究所にいる種々の職員の研究手法を参考にして、自分の研究テーマを行う上で最も適した方法を編み出すこともできた。さらに、派遣元の会社の技術と原研の技術をいかに融合させられるかについて仲介役を行うことができた。このような経験を通して、隔膜の技術者としてキャリアを積むと同時に、開発者としての幅を広げることができたと思う。

ふれ合う個性

実は私に刺激を与えてくれたのは原研の職員だけではなかった。私のほかに約10名の外来研究員が他社から原研に派遣されており、外来研究員同士の交流も活発に行われていた。おそらく、原研の中で同じ遊牧民という立場であったので、互いに親近感を持ったのであろう。数か月に一度、夜に集まり、近況や仕事に関する話しをするだけであったが、すぐに打ち解け、会社人間としではなく個人として触れ合うことができた。

その“遊牧民”の中で特に親しかったのがFさんだった。私よりも歳が一つ上で年齢が近く、原研の独身寮に一緒に住んでいたことや、開発室の所属も同じであったことから、自然と接する時間が多くなった。そして、研究のことはもちろん、技術者としての生き方についてや、結婚などの私生活についても語り合える間柄となった。Fさんがもし同じ会社の人間であったら、社内の昇進や評価に関して利害が絡み、自分をさらけ出すことにリスクが伴うので、そこまで親しくなることはなかったと思う。 やはり、そのような利害が絡まない“遊牧民”であったことが、親交を深めたのだろう。

Fさんとは、それぞれの会社に戻ったあとも交流を続け、刺激を与えあった。 その中で一番大きかったのは、原研時代の研究成果をベースとして、互いにドクターの取得を目指したことだ。そして、互い無事目標を達成することになる。おそらく、原研で遊牧民としての機会が与えられなかったら、Fさんとの出会いもなく、人生の豊かさも今程は感じられなかったであろう。

原研に派遣されてから3年後、私は遊牧民としての生活を終え、束縛多き会社に復帰した。だが、原研時代に築きあげた遊牧民としてのメンタリティーは心の中に刻み込まれていた。その後も会社という組織から一歩離れた位置から自分を見つめる目を持ち続け、自分の個性を見失うことなく、組織と折り合いをつけながらキャリア形成を行う道を歩むことになった。

遊牧民としての技術者生活

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その3 大学院卒業と就職)

2020年4月30日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第3回は、博士課程進学断念と就職です。

就職が現実となる時

就職、それは多くの学生にとっては、遠い将来のことのように思われ、その思いが覚めぬ間に急に現実味を帯びる。そして戸惑いながら自分の一生にとって重要な決断を行うことになってしまうのではないか。私の場合も例外ではなかった。大学院に入学した当初の私は、「将来は高専に活力を吹き込めるような教官となり、後輩の指導にあたりたい」との夢を抱いていた。そのため、修士課程を修了後は、博士課程への進学を考えていたので、就職など念頭になかった。ところが、どうしたことか、企業に就職する道を選ぶことになったのである。

進学への憧れと挫折と

大学院の博士課程に進学する際には学科試験がある。しかし、実際には所属する研究室の指導教官の推薦が重要となっていた。私の場合、前回述べたように指導教官と口論が絶えず、とても推薦が得られる状態ではなかった。自分自身もその対立から不眠症となり、研究を続けること自体に意欲をなくしつつあった。また、修士課程では、学術論文を少なくとも一報まとめる能力を求められたが、生まれて初めて作成した論文は、残念ながら学術雑誌の査読者から「発表する価値がない」とリジェクトされ、研究者としてその第一歩を踏み出す機会を失してしまった。

その当時、研究室の同期は着実に研究能力を伸ばし、順調に学術論文の雑誌掲載を行いつつあった。博士課程の進学にも意欲を示していた。同期の存在というのは、ときどき下宿で酒を酌み交わしながら人生論を語りあうという意味では貴重であるが、自分が自信喪失に陥ったときには、逆にその傷を深めるということを初めて知った。 もちろん同期が悪いわけではなく、その同期との比較から、大学院で自分が負け組に入ったことを自覚せざるを得なかったのである。こうして、私は博士課程への進学を諦めた。それは高専の教官になるという夢を捨てることでもあり、自分のキャリアを考えると、明らかに挫折と思えるものであった。

就職へのチャレンジ

博士課程への進学を断念した私は企業の就職先を探すことになった。この段階では、企業で研究をやりたいという漠然とした希望があったものの、どんな研究をしたいかについて、残念ながら自分なりのはっきりした意見はもっていなかった。できればその当時行っていた研究テーマに近いことができればよいと思う程度であった。結局、研究室の指導教官に相談し、研究室と研究上のつながりがあるS化成の推薦をもらい、入社試験を受けることになった。実は、S化成の人事担当が事前に“研究室の学生を1名お願いしたい“との依頼してきたもので、入社試験を受ければ、余程のことがない限り落ちるはずはなかった。

学生にとって就職は、その後30年以上も勤め、人生の約半分はそこに籍を置くので、技術者の生き方とキャリアにも大きく影響を及ぼす最も重要な選択と言える。しかし、私の場合は、研究室と就職先とのつながりで意外と簡単に決まってしまった。まわりを見るかぎりでは、私のように研究室の結びつきで就職先が決まるのが大半で、自らの判断で会社を訪問し、就職先を決めるケースは少なかったようだ。最近では多少事情が異なっているかもしれないが、いずれにせよ就職先の選択は、十分な時間をかけることができずに、限られた情報で行わねばならないのが実情であろう。

9月に2日間かけて、入社試験が行われた。1日目は、性格テストや語学の試験、2日目は社長を交えた役員面接が行われた。最初、私から志望の動機や研究室における研究テーマの説明を行い、その後数名の役員から質問を受けた。すでに書類選考が行われ、かなり人数が絞り込まれた中での試験と役員面接であるため、「余程のことがないかぎり落とされることはないであろう」と安心して会場を出た。

就職でのつまづき

結果は10月2日に受けた。これが不合格。「元気がよすぎて、当社の社風に合わないと」というのが表向きの理由だった。さっそく指導教官から「なんで落ちたんや!」と原因究明を受けることになった。不合格の通知を受けてそれなりにショックを受けているときに、落ちた原因について究明されるのは辛かったが、指導教官の立場からすれば、落ちるはずのない試験で予想外の結果となったのだから、理由を知りたいのは当然であった。

「ショックである。僕のような人間はどこの会社でも向かないのであろう。」これは不合格となった日の日記の一文である。このように感じたのは、S化成の就職担当から指導教官に不合格理由が告げられた際、「実は面接を行った役員から“協調性がなく独断的”とのコメントもあった。」と知らされたためであった。

単に社風に合わないだけなら相性の問題で諦めもつくが、性格について独断的・協調性がないと評価を下されてしまったことが、自ら思い描くイメージと異なり、自分の存在自体も強く否定されたように感じたのだった。卒業後、研究室にいた先輩から「当時、百瀬はもうだめかと思ったよ。あんなに精神的に落ち込んでいたのに、よく修論を書き上げて卒業できたね。」という言葉をもらったほどだった。

S化成が不合格となったのち、数社の大手の企業を訪問したが、不況で人員を絞っている上に10月を過ぎてからではすでに採用者が決まっており、新たな採用の可能性はほとんどない状況であった。そんなとき、大学に来ていた会社案内の中にまだ採用枠が残っている企業が1社あった。就職担当の教官に相談したところ、「自分の知り合いがその会社にいるから、一度連絡をとって見る。」とのことであった。

その会社は、ある大手商社の子会社で、資本金が1億5千万円、従業員が45名という規模の中堅エンジニアリング会社であった。 募集案内には、研究技術者を求めることが明記されており、研究開発を行っていることは間違いなかった。結局、就職担当の教官の勧めもあり、その会社の入社試験を受け、今度は無事入社できた。そのときは、“名前も知らず、業務内容も充分に知らない会社で、今後本当に大丈夫なのか”という不安にかられたけれども、とりあえず就職先が決まったという安堵感があった。

谷底で感じたこと

4月から新入社員研修を受け、5月から岡山の研究室に配属された。研究室は私を入れて総勢6名で、事務所の一室を実験室に改造したこじんまりしたものだった。実験室には、小型の電子顕微鏡が置かれ、多少研究室らしい雰囲気を醸し出していたが、その他の設備はほとんどなかった。入社後に取組むことになった研究テ−マに関しては、まったく設備も知見もないという状態であった。岡山の田園地帯のど真ん中に作られた研究施設で、その牧歌的な雰囲気がなおさら研究環境をわびしく感じさせた。

修士修了時の私は谷底に転落した状態にあったので、なんとか這い上がりたいと想いを巡らしたものの策はなく、とりあえず新しい環境に慣れる必要があると考えた。入社後の研究テーマの説明時も、「何故私がこのテーマをやらないといけないのですか。」とは聞かず、「とにかくこのテーマをどのように進めていくか考えよう。」と心のなかで割り切った。これがその後も、私の仕事への取組み姿勢となっていく。実はこの姿勢がその後、谷底からの脱出に大きく貢献することになる。

挫折とは何だろう

私の場合、就職に至る経緯で紆余曲折があり、博士課程への進学を諦め、高専の教官になる夢を捨てたことは挫折であった。しかし、就職するさいにS化成に入れず中堅のエンジニアリング会社に勤めることになったことは、今から思うと人生における“つまづき”ではあっても、挫折ではなかった。

もし私がS化成に入社していたら、入社できたことを当たり前と捉え、入社に対してありがたさや、逆に不満を感じることもなかっただろう。また、特に自分自身を振り返ることもなく、S化成という組織に自分を馴染ませていったに違いない。 そして、就職は人生の重要な転機であるにもかかわらず、その意味することに注意を払う機会はもてなかっただろう。S化成の不合格は、自分自身を見つめ直し、その後、キャリアの形成を考えるよい機会となった。

またS化成に入っていた場合、同期入社の社員が多数いたので、当然激しい競争もあっただろう。大学院時代に技術者として自信を失っていた状態の私では、立ち直る機会がなく、かえって落ち込んでいったかも知れない。一方、入社したエンジニアリング会社では、同期の男子は私一人だったので、幸い競争もなく、その後、国内留学と海外の大学への留学の機会もつかむことができ、技術者として充実したキャリア形成を行うことができた。

以上のことから、就職先として中小企業を狙うべきであると言いたいのではない。自分が志望した会社に就職できなかったとしても、それ自体は挫折ではなく、その後の展開次第では、かえってそのことが幸いする場合がある。だが、ただ待っていても幸福は訪れない。つまづいたときに諦めるのではなく、それをいかに跳ね返して行くか、その方策を忍耐強く考え抜くことが重要なのである。なぜならつまづきがきっかけとなり、崖から転落する場合のほうがはるかに多いのが現実だからである。

博士課程への進学と技術者としての就職

エンジニアキャリア:百瀬隆さん (その2 大学院時代)

2020年4月27日エンジニアキャリア紹介

百瀬隆さんの技術者人生経験談と教え第2回は、教授との考え方が合わなかった大学院時代です。

忘れられない情景

「朝だ。憂うつな朝だ。研究室に行かねばならない。本当は行きたくない。ため息がもれる。」これは私が大学院時代に書いた日記の断片である。なぜ、この一文から始めなければならないのか? それは今まで50年間私が生きてきた中で、精神的に最も苦痛で、一歩間違えばその後の生き方が大きく変わる、そういう分岐点に置かれていた状況を象徴しているからである。先ほどの日記は、大学院に入学してから半年ぐらいで書いたものだ。当時は研究室から下宿に戻っても研究室での緊張感が解けず、眠ろうと思っても眠れない状態が続き、朝になっても疲れがとれないまま研究室に行かねばならなかった。どうも不眠症にかかっていたようだ。しかし、なぜこれほどまでに、精神状態が落ち込んでしまったのだろうか。

希望と不安と

4月から大学院での新しい研究生活が始まることになった私は、他大学からこの大学院に進学したこともあり、実際に自分が所属する研究室がどのような様子で、指導教官がどのような人なのかほとんど予備知識がなかった。そのために、心に一抹の不安を感じながら研究室に顔を出した。初めて会った指導教官は、助手から助教授に昇格し新しく研究室を構えたこともあり、非常にエネルギシュで活動的な印象を受けた。そして指導教官は、その研究室では初めての大学院生となる私に期待をかけている様子で、気さくに話しかけてくれた。私も良よい研究室にきたと安堵するとともに、今後の研究生活に期待をもった。

ところが、研究を進めるうちにその教官から「学部時代、君は一体何を勉強してきたのか?」「君のようなドジな人間はどのように指導したらよいかわからない。」「高専から大学、そしてこの大学院に来たのは、ようやくまともなルートに戻ったということでしかない。」と言うような指摘を受け始めた。学部時代、私は高専からの編入学1期生ということもあり相当に努力した結果、研究室での評価も高く、他の学生からも一目おかれていた。したがって大学院に入って受けた指導教官からの指摘は、以前とは正反対のものであり、大学卒業から数カ月で、自分に対する周囲の評価が急に変わったことに戸惑った。そして、いったいどちらが本当の評価だろうかと迷いが生じ始めた。

しかし、当時は朝の10時から夜の10時頃まで研究室で実験を行い、まっすぐに下宿に帰るという生活をしていたので、研究室以外の世界と接触する機会は少なく、悩みを相談できる人も身近にいなかった。そして、迷いに対する解は得られず精神的に憔悴してゆき、入学してから半年間は下宿に戻ってもよく眠れない日々が続くことになった。その結果、研究室で実験を行ってもすぐ疲れてしまい、前向きに研究を行う意欲がだんだんと失われていった。

対立が始まる時

そんなある日、大学院のある講義を受けて研究室に戻ってくると「実験もしないで、どこへいってきたんや!」という指導教官の言葉が飛んできた。その後3時間ぐらい、その講義の受講の是非について口論が続いた。問題となったその講義は、文芸評論家として著名な江藤淳教授による「比較文化論」のゼミナールだった。工学系修士課程の単位として正式に認められたものだったが、指導教官からは「君は大学院に何を勉強しにきてるんや。有機化学やないんか!」と更なる追求があり、それに対しては、「私は人間ですから文系の授業も必要と考えております。」と返答した記憶がある。その後、結果的には自分の意志を通し、江藤ゼミを取り続けたが、この間、指導教官との関係はますます険悪なものとなっていった。

当時は、気づかなかったが、どうも“うつ病”にかかっていたようだ。うつ病の症状としては、漠然とした憂うつな気分が続き、自分がだめになってしまったと自己を卑下し、自分を責める気持ちがおこってくるとされているが、この時に感じたことはまさにそのような感じであった。私のように研究室という狭い世界に閉じこもり、世の中との接触があまりない場合には、指導教官との人間関係により、精神状態が大きく左右される。当時は下宿で一人暮らしをしていたので、その影響も大きかった。そして、いったん指導教官との関係が悪化してしまうと、その後それを修復することは難しく、非常に苦しい研究生活をおくらねばならなかった。

ときどき、苦しさに耐えきれず、大学院生活を続けることを断念できればという誘惑にも襲われた。おそらく、このときに大学院をやめていれば一時期は楽になれたとしても、その悔いを今も引きずることになっていただろう。だが、なぜ指導教官と対立してまで江藤ゼミを受講することにこだわったのだろうか。その理由をたどると高専時代にまで至る。

文系の学問への憧れ

高専はもともと現場のエンジニアを促成栽培するために作られた学校で、中学校を卒業後5年間で大学並みの専門性を身につけることが目標とされるので、大学の一般教養に相当する部分が割愛されていた。そのため私自身、高専時代は大学生よりも一般教養が劣るというコンプレックスを感じ、専門以外の本を読むように心掛けていたが、その中に江藤先生の著書があった。たまたま入学した大学院で、江藤先生が教授として講義を行っていることを知り、ぜひそのゼミで学びたいと思ったのである。実はこの大学院では、教育理念として自主的思考力と創造的能力をもつ技術者を育てることを掲げており、工学系の講義に加え、高名な文系の教授による講義が受講できるシステムが整えられていたのだ。

江藤ゼミをとったもう一つの理由は、「いったい、自分とは何か?」という自分自身への問いかけに対する答えを探したいという願望であった。これは、自分という概念を形成する上で最も重要な問いであるが、大学院の研究生活では、実験や指導教官とのディスカッションを通して、科学の手法や専門知識を身につけることはできても、この問いに対する解はなかなか得られない。むしろ、研究熱心であればある程、この問いから離れていくように思えた。私は、工学系の研究室では、そういうことを考える場がないことに物足りなさを感じるとともに、指導教官との関係の中で感じた心の不安を除こうと、江藤ゼミを受講し、江藤教授の個性に触れたいと強く思うようになったのである。

葛藤と個の芽生え

私と指導教官の対立の原因はいったいどこにあったのだろうか。多くの技術系の大学院では、“指導教官から研究の考え方や進め方について日々指導を受け、学生は将来研究者として独立して研究できる能力を養う”という明確な師弟関係の構図が成り立っている。通常、研究能力や専門知識の量から考えて圧倒的に指導教官が優位性を保っている。さらに、研究を進めるうえで重要な科学的手法は、教科書で学ぶより、実際の研究を通して身につける部分が多い。そのためよい教官に指導を受けることは非常に重要である。師弟関係を通して専門教育が行われること自体は何ら問題がなく、むしろ積極的に行われるべきものだろう。また指導教官から研究手法の指導を受けるにあたり、能力が足りない部分について指摘を受け、場合によっては叱責を受けることも大切なことだと思う。私の場合にも、大学院において指導教官から研究能力の足りない部分について種々指摘を受けたことは、当時は苦しいと感じていたが、結果として私の研究能力を高めることにつながったことから、今では感謝している。

しかし、江藤ゼミの受講に関して指導教官と対立した点については、少し性質が異なっている。指導教官の立場からすれば、大学院ではまず専門能力を高めることが第一義であるから、文系の授業はとるべきでないという意見になり、私の立場としては、専門家である以前にまずは自分とは何かを問うことが第一義であるから、文系の授業も受けるべきという意見になる。しかし、「自分とは何か?」という問いを重要なことと考えるか、あるいは青二才の議論はどうでもよく、まずは「専門家として生きていくためにはどうすべきか」を考えることが重要とするかは、個人の価値観の違いであってどちらが正しいとはいえない。大学院の指導教官との対立の中で江藤ゼミを受講することで議論になったのは、結局この価値観の違いに根ざすものであった。

ここで重要なことは、師弟関係において価値観の違いによる対立が起こった場合、どのように対処されるかである。一般的に技術系の師弟関係では、場合によって指導教官が学生の個性をも支配してしまうという力学が働きやすい。特に、専門領域において研究実績を積み、自信がある教官ほど、自分の考え方や価値観を学生に押しつける傾向が強くなりがちである。その根底には、学生であっても個人としては独立したものであるという自覚が、教官側にも学生側にも欠けており、成熟した師弟関係が築けないためではないかと思われる。学生側も知識や経験が劣るとしても、個人として卑下する必要はないのであって、専門能力と自分の個性は分離して考えるべきであろう。

私が江藤ゼミ受講の件で指導教官と対立したのは、私という個性が芽生え始め、指導教官の価値観が支配する重力圏ではもはや安定し得ず、私自身の価値観を築き上げるために、慣性圏へ脱出しようとしたためであった。そして私が経験した価値観の違いに根ざす師弟の対立は、互いの価値観の違いを理解し得ないまま解決の糸口を見いだせずに、私の卒業によって終止符を打つことになった。

教授とは考えが合わなかった

出展:「現代化学」(東京化学同人)2005年4月号

エンジニアキャリア:百瀬隆さん(その1 高専入学から大学編入まで)

2020年4月26日エンジニアキャリア紹介
百瀬隆さん

百瀬隆さんは大手化学メーカーのダイセルで知的財産センター長を勤め上げた後、金沢工業大学大学院で客員教授をされていますが、キャリアプランに対して若い技術者に伝えたいことを、ご自分の経験を踏まえて2005年に雑誌「現代化学」(東京化学同人)に連載しました。非常に参考になるお話であり、ご本人ならびに出版社の許可をいただきましたので、ここに転載いたします。

 

冷たい現実

ある本に「現在の企業では40才過ぎた技術者はいらない。」と書かれていた。これについてどのように感じるであろうか。「そんなはずはない。何かのまちがいではないか?」ととらえるのであろうか。それとも「技術者として夢を持っているのに水を差すようなことは言わないでほしい。」と非難の言葉を投げかけるのであろうか。しかし、これは現実なのである。

私が勤める化学会社においても40歳過ぎた現役の技術者はごく稀である。大部分は技術分野に残っているとしても管理的な仕事をしており、技術分野以外の業務を行っている人もかなり多い。私自身も例外ではない。38歳の時に技術者として現役を引退し、現在は知的財産部門で仕事をしている。それは、若手の技術者と比べ、発想の点でも粘り強さでも太刀打ちできないという冷たい現実があるからである。

この連載では、このように技術者にとって厳しい時代に、私自身どのように生き抜いてきたのか“実験レポート”として紹介し、悩める技術者が今後の生き方を考える上でのきっかけとしてもらえればと願っている。

初めて描いた夢

私が高専の3年生であったころ、学生会の活動を通して、他学科にいた5年生のKさんと知り合いになった。その当時Kさんは、卒業後大学に編入学するために試験勉強をしており、「専門技術者として生きていくためには高専だけでは不十分で、少なくとも大学院まで行く必要がある。」との明確な信念を持ち、それを実現するために自分の頭で考えて必要な準備を進めていた。私自身もそのころ、このまま卒業して会社に勤めることに夢が感じられず、物足りなさを感じていたときであったので、Kさんに刺激され、大学へ編入学する道を選ぶことにした。できれば大学院にも進み、将来は高専に教官として戻り、後輩の指導にあたりたいとも考え始めた。これが私が最初に描いた夢らしい夢であった。

しかしその当時は、高専から大学への編入学は制度化されておらず、大学で学生の欠員が出た場合に編入学試験を実施するという状況で、私が在籍した高専から編入学したのは、開校以来わずかに3人だけだった。したがって、挑戦したとしても受け入れてくれる大学は少なく、かといって途中で就職に転じるとしても正規の採用試験は終わっているので、その後の進路については方向性を見失ってしまうというリスクはつきまとっていた。しかし、いったん決めた以上は後戻りできないので、最善をつくす以外に方法はなかった。

編入学試験に関しては大学受験のように予備校はなかったので、まずは編入学を経験した先輩から情報を収集することから始めた。そして試験のためにどのような勉強をすれば良いのか、教科書選びや勉強の仕方について自分なりの計画を立てた。高専の卒業に必要な授業の単位もとらないといけないので、試験の準備は、限られた中でいかに効率よく勉強するのか工夫する必要があった。そして、試験準備を通して、学校から与えられたカリキュラムに従って勉強するのではなしに、ある目的を達成するために独自のカリキュラムを手作りで編み出し、自主的に勉強していくことの重要性に気づいた。

だが新たな挑戦に対する意欲に反し、現実の試験はきびしいものであった。 募集が数名のところに、全国の高専から編入学希望者が殺到するので、自分では比較的試験がよくできたと思っていても、競争相手は同じ高専生であるので、結果は合格発表をみるまではわからないという状況だった。結局、なかなか受からず、ようやく5校目で東京の大学に合格することができた。その通知を得たのは高専の卒業式の数日前であり、進路が決まった状態で卒業式に臨むことができたのは幸いであった。

夢の展開

1975年の4月から大学の3学年に編入学し、いよいよ大学生としての生活が始まった。 東京の郊外にあるこじんまりとした大学ではあったが、キャンパスに並んだケヤキの木は大学らしい雰囲気を醸し出していた。初めて接する大学の授業も新鮮な感じを受けた。当時の高専では選択科目はなく、すべての授業の単位を取る必要があったので、自分の興味で授業が選択できること自体にある種の豊かさを感じた。キャンパスには、工学部の学生だけでなく他の学部の学生もおり、高専からみると世界が広がったという印象を強く受けた。

「君たちは、高専からの編入学の第一期生となるので、当大学での君たちの活躍が今後の編入学生の評価につながってきます。来年度から高専からの推薦入学も考えていますので、ぜひよい成果を残すよう頑張っていただきたい。」とオリエンテーションの場で学科主任からの挨拶があった。このように、編入学生に対してかなり期待をかけてもらっていることがわかったので、各授業においてよい成績をとるべく努力をした記憶がある。

4学年からは、研究室に所属し卒業研究を始めた。研究室には指導教官の他に助手が一名おり、そのほかに大学院生が4名いた。卒業研究を進める上で、実験のやり方などについて先輩である大学院生が指導してくれたことは貴重な経験となった。高専では指導教官と5学年の学生だけで大学院生がいなかったので、先輩から指導を受けることができなかった。このように、大学に来て本当によかったと思うとともに、恵まれた環境で卒業研究のテーマを展開することができたので、指導教官からは「編入学生は非常に優秀である。」という評価を得ることができた。

卒業研究を行う一方で、大学院への進学の準備も進めた。大学に編入学する際にかなり試験勉強をしていたので、それらをもう一度復習する程度ですまし、弱点となっていた語学の勉強に力を入れた。大学院の受験は出身大学と難関大学の2校を目指した。難関大学への受験は、高専在学中には想像すらできないことだったので、受験するとしてもとても受からないとあきらめていた。

予想に反して、実際には両方の大学院から合格通知を得ることができた。しかも難関大学に合格したのは、出身大学の学科から2名だけであり、快挙といえるものであった。 指導教官からは是非知名度の高い大学院にいき、研究者としての経験を積むべきであると強く進められ、それに従うことにした。これにより高専の時に描いた夢の実現に向けて大きく一歩踏み出すことができた。

夢がやぶれる時

冒頭で述べたように、現在私は、ある化学会社の知的財産部門のマネ−ジャーとして働いている。これは何を意味するのか。最初描いた夢は、高専で後輩を指導している姿であった。そして、大学院への進学はその姿を実際に目に見える形にする上で順調な滑り出しといえるものであった。こうして進んだ大学院で研究成果を上げ、博士号を取れば、母校の高専の教官になることもそれ程難しい選択とも思えなかった。いったいどこで夢が破れてしまったのだろうか。

今までの私のキャリアを振り返ってみると、高専から大学への編入学はかなり際どい選択であったけれども、なんとかそれを乗り切り、無事大学に入学できたことは大きな成功体験であった。20才という若さも手伝ってか、明確な目標をもって努力すればたいていのことは実現できるのではないかという自信さえ芽生え始めていた。しかし、あるつまずきがきっかけとなり、自分が描いていた像とは異なる方向に滑り落ちてしまった。その時に落ちる痛みも味わった。そして、何とか初心を貫くために這い上がりの努力を続け、ようやく回復したと思ったら、また崖から突き落とされるというか、自ら落ちてしまうというか、ルートから外れ、また這い上がりの努力を続けている自分の姿がありありと浮かび上がってきた。

その過程で、キャリアというものはデザインしてもなかなか思い通りにならないということを骨身に感じた。しかし、決してそれが結論であると言いたいのではない。這い上がりのときには、あるべき姿をデザインし、それに向かって努力することも必要であった。そしてデザインとともに、救いの手を差し伸べてくれるメンター(助言者)の存在が、這い上がりを成功に導くために欠くことのできない条件であることも知った。

どのようにキャリアを表現するのか?

次回以降では、大学院に進学した後の私のキャリアについて述べていきたいと考えている。ただ、キャリアというものが、それぞれの局面で自分で判断し、選択を行っていく中で形成されるというきわめて属人的な側面を持つので、私自身のキャリアを表すときは、私がどのような状況に置かれ、その時にどのように感じ、そして這い上がるためにどのように行動し、結果としてどのようになったのかがわかるように具体的に記述するつもりである。

さらにキャリア形成において、人に話したくない嫌な想い出がつぎの行動を生む原因となっている場合が多かったので、これらをできるだけ正直に書くように努力したい。つまり、窮地に追い込まれ、這い上がろうとしている私自身を実験対象とみなし、その実験の実施者である私が、外からその実験対象がどのような行動を起こすのかを観察し、それに考察を加え、最終的にそれらを記述して行くという方法で私自身のキャリアを表現しようと試みる。これが表題において“実験レポート”というメタファーを使った理由である。

しかし工学実験と大きく異なる点は、実験対象が私自身であるということから、実験に失敗したときには私自身が痛みを感じることと、私の失敗について語ること自体に痛みを感じるということである。それではなぜそこまでしてこの実験レポートを書く必要があるのだろうか。それは、自分自身を知るということへの新たな旅への憧れであるのかもしれない。

 

技術者ライフには色々なことが起こる

出展:「現代化学」(東京化学同人)2005年4月号